2010年12月27日月曜日

(旧版)晋州城攻略

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文禄1年4月の進攻開始以来、日本軍は占領地を広げたが、全羅道を中心として隣接する慶尚道南西部、忠清道西部は未入地として残っていた。このため、ここが朝鮮側最大の反撃拠点となり、日本軍にとってこの地域の討伐が課題となった。

明との講和交渉が開始されることになると、文禄2年4月日本軍は漢城を引き払って全軍釜山周辺へ集結しており、大部隊を以て討伐を実施する環境が整う。

まず慶尚道南西部の中核都市であり、かつ全羅道への通路にあたる晋州城を攻め落とし、当地域の朝鮮側戦力を無力化することが目標となる。晋州城は前年10月にも攻めたが攻略に失敗したため、何としても攻略して前年の借りを返さなくてはならない城であった。

晋州城攻略作戦は在鮮日本軍の総力を結集した大規模なものとなり、一つの戦いとしては文禄・慶長の役全期間を通じて最大兵力の投入である。
(晋州城攻防戦#第二次攻防戦)

晋州城陥落後、日本軍は城を破壊し、周辺域の掃討に入る。慶尚道南西部、さらには全羅道との道境を越えて境界域をも掃討した。その後、釜山周辺に戻り倭城を構築し43000人をその守備に充て、他は帰国して講和交渉期に入る。




日本軍が亀甲車を使用する。

『常山紀談』後藤基次亀甲の車を造る事
晋州の城を攻めらるる時、黒田長政の士大将後藤又兵衛基次亀の甲といふ車を作り出せり、厚板の箱を拵へ内に強き切梁(きりはり)を設け、石を落しかけても箱の摧(くだ)けざる手当(てあて)をし、箱の内へ後藤入りて棒の棹を指し車を箱に仕かけ、進退自由に廻る様にして城際へ押詰石垣を崩して乗入けり。

『宣祖実録』[16]
又作大櫃爲四輪車, 賊數十人, 各穿鐵甲, 擁櫃而進, 以鐵錐鑿城。 時, 金海府使李宗仁, 膂力冠于軍中, 宗仁連殪五賊, 餘皆遁走。 城中之人, 束火灌油而投之, 倭因皆燒死。

『宣祖修正実録』
又作大櫃以藏兵, 下爲四輪車, 賊數十人着鐵甲, 擁鐵楯, 推車薄城, 以大鐵錐鑿城。 李宗仁 獨發矢, 矢必穿甲, 賊兵多死。 城上束蘊灌油, 放火投下, 燒其櫃, 櫃中賊盡殲。

黒田長政配下の後藤基次が亀甲車を作り城壁を崩して乗り入り、晋州城は落城した。朝鮮側記録では、日本軍が使用する“4輪の大櫃”に対して、朝鮮軍が油を落として炎上させ、日本兵を全滅させたことになっているが、中に入っていた後藤基次はその後も大坂の陣で戦死するまで生存している。