2011年9月17日土曜日

別個の出来事である“順天城の戦い”と“帰国妨害の海上封鎖”を一連化する歴史捏造行為

慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて戦われた順天城の戦いと、一か月後に行われた順天城の日本軍に対する帰国妨害のための海上封鎖を連続した一つの出来事として語られることがある。一例をあげると韓国・慶尚南道のサイト<忠武公李舜臣> - 壬辰倭乱 - 壬辰倭乱経過 - 朝・明連合軍の反撃と終戦というページ。こうした韓国発情報の影響か、日本でも「9月19日、明・朝鮮軍によって水陸から順天城が包囲され、小西行長らは脱出不能に陥った。これを救出するため出動した島津義弘らの水軍と明・朝鮮水軍の間に11月18日露梁海戦が戦われ、翌日小西行長らは脱出することができた。」などといった具合に語られることがある。これだと2か月の間継続して順天城が包囲されていたことになるが、こんなことは全く事実に反する。

実際の経緯を述べると。水陸の明・朝鮮水軍が、小西行長らが籠城する順天倭城の攻略を目指した順天城の戦いは、慶長3年(1598年)9月19日に始まった。しかし、結局城の攻略に失敗し、10月7日に明・朝鮮陸軍が退却したのに続き、9日には明・朝鮮水軍も退却して水軍本営の古今島に帰還した。これにより城の包囲は解かれ、順天城の戦いは明・朝鮮側の敗退という形で終結した。その後一月近くの間をおいて、明・朝鮮水軍は豊臣秀吉死去に伴う日本軍帰国の情報を得、11月7日に水軍本営の古今島を出発し11月10日に順天沖の光陽湾を海上封鎖して小西行長らの帰国を妨害した。これを救出するため出動した島津義弘らの水軍と明・朝鮮水軍の間に11月18日露梁海戦が戦われ、翌日小西行長らは脱出することができた。

これらの経緯は李舜臣の著した『乱中日記』や朝鮮王朝編纂の『宣祖実録』で明確であり、本来なら議論の余地もないことである。ところが、この明・朝鮮水軍の一連の行動の内、城の攻略に失敗して帰還し、後で再度出航して海上封鎖した過程が消去された上、前後をくっ付けて語られる事態がしばしば見られるのだ。これにより、帰国を図る日本軍が2か月の間順天城に包囲され攻撃を受ける中で脱出したように捏造されている。

もう一つ注意しなければならないのは、順天城の戦いの時点での日本軍の状況は城の在番体制を固め翌年の攻勢準備を進めていたのであり、帰国を図ってはいない。豊臣秀吉は8月18日に死去しているが、当時は情報が瞬時に伝わる時代ではなく、帰国方針が現地に伝えられるのは順天城の戦いで明・朝鮮軍を撃退し包囲が解かれた後、10月に入ってからのことである(詳細は、三路の戦い #追撃ではない明・朝鮮軍による三倭城攻略作戦を参照のこと)。ところが、順天城の戦いの時点で既に日本軍が帰国を図っていたような主張がしばしば見受けられる。

先ほど例示した韓国サイトの<忠武公李舜臣> - 海戦 - 海戦戦闘 - 9次出戦ページでは出戦の次数そのものが捏造されている。ここでは順天城の戦いを無かったことにして、いきなり露梁海戦に飛び、これを9次出戦としている。しかし、実際は順天城の戦いが9次出戦であり、露梁海戦は10次出戦である。

なぜ、このような歴史捏造行為が行われるのか? それには二つの要素が大きく作用している。

一つ目の要素は、朝鮮が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に勝利したという虚構を仕立て上げるためには、戦争の最終段階まで日本軍が勝利し、朝鮮軍や明軍が敗北を重ねているという事実が極めて不都合になるため、これを隠さなければならないという事情である。慶長2年末から慶長3年始めにかけて戦われた蔚山城の戦い(第一次)で明・朝鮮軍は大敗を喫し、同年9月末から10月初めにかけて戦われた三路の戦いでも蔚山・泗川・順天、全て敗北している。このように明・朝鮮軍は戦争の最後まで連戦連敗であり、「而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録10月12日条』」という状況に陥っている。つまり朝鮮が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に勝利したという戦争結果を成立させる余地は存在しないのである。しかし、現在の韓国でこうした状況は隠されるか歪曲されるなどして真実が語られることは少ない。また日本の研究者やメディアの中にも韓国の状況に同調するような者が存在し、これが事態を悪化させている。

二つ目の要素は、李舜臣が「23戦23勝」「無敗の名将」という神話を作り上げるためには、李舜臣が順天城攻略戦に敗退したという事実を隠さなければならないという事情である。実のところ李舜臣は、この順天城の戦いを含め、日本軍の陸上拠点に対する攻撃は殆ど不成功に終わっている。これに関しても現在の韓国でこうした事実は隠されるか歪曲されることが多いし、やはり日本の研究者やメディアの中に韓国の状況に同調するような者が存在して事態を悪化させている。
これらの二つの隠さなければならない要素が重なることにより、順天城の戦いと、一か月後に行われた順天城の日本軍に対する帰国妨害のための海上封鎖を連続した一つの出来事とする歴史捏造行為が行われるのである。このような行為はあってはならないことだ。

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“真相” 文禄・慶長の役

2011年9月12日月曜日

Wikipediaに『海汀倉の戦い』を立てる

海汀倉の戦い - Wikipediaを新規に立てた。

2011年9月10日土曜日

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)

慶長の役でも李舜臣が日本軍の補給路を寸断したという言説があるが事実ではない。
慶長の役では、漆川梁海戦で元均麾下の朝鮮水軍が壊滅的打撃を被った後、李舜臣が三道水軍統制使に復帰し、朝鮮水軍の指揮をとるが、以後一度も釜山近郊に現れていない。鳴梁海戦の後も李舜臣が根拠地としていた場所は全羅道西方の古今島であり、ここから長躯釜山に進出することは当時の朝鮮水軍の造船技術や航海技術では不可能なことだった。

この時代の朝鮮の軍船は(日本も同様であるが)櫓走を主として航行するため、多数の漕ぎ手が乗船しており、必ず休息と睡眠をとるために毎日停泊しなくてはならなかった。また、乗員が多いことは食糧や飲料水の消費量を増大させるが、反比例して荷の搭載スぺース少なくなる。このため艦隊は補給を受けるためにも停泊する拠点を必要とした。ところが、釜山から順天のおよそ140kmに及ぶ沿岸は日本軍の制圧下にあり、朝鮮水軍が釜山に到達することは不可能で、実際に李舜臣は一度も釜山の前洋に達していない。よって、李舜臣が日本軍の補給路を寸断することなど有り得ないことなのである。

しかし、実は朝鮮水軍が一度だけ釜山の前洋で日本軍の補給線を妨害したことがあった。それは時間を溯って慶長の役初頭の元均が三道水軍統制使だったときのことだ。このときは、文禄の役後の講和交渉の進捗で日本軍が巨済島から撤収していた影響で、慶長の役開始当初、朝鮮水軍は巨済島を停泊地にして釜山前洋に進出することが可能であった。しかし効果を挙げる間もなく元均麾下の朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍の逆襲を受け壊滅的打撃を被り、補給線妨害作戦はここに終決することになった。
この経緯は日本側記録でも確認できる。

番船唐島(巨済島)を居所に仕、日々罷出、日本通船、渡海一切不罷成ニ付而、五人之者申合、唐島へ押寄、昨日十五日夜半より、明末之刻迄相戦、番船百六拾餘艘切取其外津々浦々、十五六里の間、舟共不残焼棄申、唐人数千人海へ追いはめ、切捨申候、・・・
七月十六日付、四奉行(前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)宛、小西行長、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、島津義弘・忠豊、連署状『征韓録』

 
この慶長の役初頭の極短期間以を除き、その後日本軍の海上補給線が妨害されたことは一度も無い。

慶長3年3月13日に豊臣秀吉が朝鮮在番の諸将に発した書状に、「兵糧を日本の都へ届けるよりも、その方(朝鮮)に届けるほうが容易である」とする。
兵糧之儀ハ、日本之都へ相届候よりも、其方へは輙候・・・
  三月一三日付、立花宗茂宛、豊臣秀吉朱印状
(他に類似の、同日付、朝鮮在番諸将宛、豊臣秀吉朱印状が複数あり)
日本軍の海上補給線が妨害されていないことが確認できる記録である。文禄の役と同様に、慶長の役でも李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという言説が成り立つ余地はない。

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“真相” 文禄・慶長の役

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)

文禄の役で「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という言説が存在する(一例;日韓歴史共同研究報告書(第1期)・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」。しかし、そのような事実は存在しない。

日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐を経て対馬厳原に到り、対馬北端に位置する大浦などから釜山に着岸して荷を下ろし、その後は陸上を漢城に向かうというものだ。この補給路を朝鮮水軍が寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのものを占領奪還するしか方法はない。

しかし実際のところ李舜臣が釜山の海上封鎖を行ったことはない。それどころか釜山前洋に現れること自体殆ど無かった。閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり釜山には触れてもいなかった。たった一度だけ釜山に現れたのが文禄元年8月29日(明暦9月1日)の釜山浦の戦い(釜山浦海戦)である。そして、この戦いで李舜臣は釜山の占領奪還を狙ったが失敗し日本軍補給路を寸断することはなく退却した(詳細はtokugawaブログ: 釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討するを参照のこと)。たった一日の数時間の出来事でしかなく、このような継続性のないことでは日本軍の補給を滞らせることはできない。この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることは二度と無かった。つまり結局李舜臣が日本軍の補給路を寸断したことは無かったということだ。

実際、漢城在陣諸将が文禄2年3月3日に発した連署状には、4月11日までは漢城に兵糧があると書いた後で
釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候・・・・・
『(文禄二年)三月三日付・漢城在陣諸将連署状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書100
釜山には兵糧があることが書かれている。輸送が困難なのは、その後の陸路に山や坂があることや、川(洛東江)を遡航して輸送するにも人数不足であることが書かれている。これを見て判るように海路釜山には兵糧が運ばれていたのだ。海上補給路は妨害されていなかったのだから、それは当然のことといえる。

文禄2年4月、日本軍は補給不全の漢城を引き払い、補給を受けることが出来る朝鮮南部に再布陣するが、これにより兵糧不足は解消された。もし兵糧不足の原因が李舜臣による海上活動によるものならば、内陸奥地にいようと、南部沿岸部にいようと、無関係に兵糧不足は生じていたはずである。

これについて、ルイス・フロイスの『日本史』にも記録されているので引用する。
遊撃との間で上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ P270
このように、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことは疑いようがなく、李舜臣が日本軍の補給線を寸断したなどという状況は存在しない。

南部への再布陣により、補給を充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢を開始し、29日、朝鮮側最大の反抗拠点と目された晋州城の攻略を成し遂げることができた。この晋州城攻略作戦は文禄の役が始まって以来最大の作戦であり、9万を超える軍勢が晋州城とその周辺に投入された。この大兵力を支える補給物資が集積されていたということだ。

晋州城の攻略後、ただちに日本軍は慶尚道南部の沿海部に多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。この時期についても、ルイス・フロイスの『日本史』に記録されているので引用する。
それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ P276
今日、倭城と呼ばれるこれらの城郭には、やはり兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達しているのだ。また、この晋州城攻略作戦から倭城群構築にかけての時期に、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と渡海しており、海上交通路が安全化されていたことは確かといえる。ここでも李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという状況は存在しない。

南部の倭城群に布陣する日本軍の補給物資が充足した状況は文禄3年以降も変わらない。文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状を見てみよう。
急度被仰出候、被越置候御城米之儀、彌古米ニ不成之様、手前兵糧ニ取替召遣、具数無相違、元程可積置候、釜山浦幷かとかい(加徳島)東莱・竹島等ニ有之分、莫大之儀候條、為御奉行、福島左衛門大夫・毛利民部大輔、被仰付候、手前御城米引加、惣人数多少ニ付令割符可積替候・・・
『(文禄三年)五月二十四日付・豊臣秀吉朱印状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第175
釜山・加徳島・東莱・竹島(金海)等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている。このように実際の状況は古米化を心配しなければならないほど兵糧は豊富であり、補給の断絶などとは全く逆の状況を示しているのだ。

結論として言えることは、文禄の役を通じて「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が虚構にすぎないことは明らかである。さらに「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が虚構にすぎないことは慶長の役においても同様である。これについては次の投稿・李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編) で説明する。

※2014年9月10日、ルイス・フロイスの『日本史』関連の記述を追記し、文章を再構成する。
※2014年9月17日、文禄3年以降の状況を追記。

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2011年9月6日火曜日

釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討する

文禄元年(1592年)8月29日、李舜臣以下の朝鮮水軍が日本軍の支配下にある釜山を攻撃した。この「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」について、参謀本部編纂『日本戦史・朝鮮役』「釜山ノ戦」では朝鮮水軍の敗退として書かれている。ところが、現在の韓国ではこの戦いが朝鮮水軍の大勝利と全く逆の扱いを受けていることが多い。そこでこの戦いの勝敗について検討してみることにする。

勝敗を検討するにあたり、まず朝鮮水軍は何のために釜山を攻めたのか、その作戦目的を知る必要があるので、各種史料を見てみよう。
八月、李舜臣進攻釜山、鹿島萬戶鄭運死之、舜臣引兵還。舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而之、賊必據。」遂進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十三 附録五 宣廟中興志
李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之をせば、賊(日本軍)は必ず據(拠)をう。」と宣言して釜山攻撃を始めている。

日本軍の根拠地となっている釜山に進撃して、これを覆し、日本軍の拠り所を失陥させる。それが作戦目的という。別の言い方をすれば釜山の占領が朝鮮水軍の作戦目的ということだ。

よく似た内容が『宣廟中興志』以外にも書かれている。
公與李億祺、元均、助防將丁傑等相議曰、「釜山爲賊根本。蕩其穴、則賊膽可破。」遂與進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之九 附録一 『行録』
公與元均、李億祺、丁傑等計曰、「釜山、賊之喉也。進而扼之、賊必其據。」遂進逼釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『行状』
公進撃釜山、其根・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『神道碑』領議政金堉

確かに釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であり、もしここを朝鮮水軍が占領すれば、朝鮮にいる日本軍は補給連絡を絶たれて孤立し、日本に退却することも出来ずに全滅したであろう。

さて、この戦いが終結したとき釜山は覆っただろうか? 戦いが終決したとき日本軍は釜山を失っただろうか? いや、そんな状況には全くなっていない。つまり李舜臣は作戦目的の達成に失敗したということだ。この戦いが単に船を撃沈しに行ったのではなく、釜山の占領が目的だった証拠に、兵を上陸させて陸戦が戦われている。しかし全く歯が立たず敗退した。

釜山の奪還に失敗した李舜臣であるが、彼は報告の中で100余隻という膨大な数の日本船を破壊したと主張している。これだけの大戦果を挙げたのだから、たとえ作戦目的を達成していなくても朝鮮水軍の大勝利ではないかという意見も出てくるかもしれない。しかし、このような膨大な戦果を客観的に証明するものは何もない。もちろん日本側記録でも確認できるものではない。戦史研究の一般論として、このような自称大戦果を安易に受け入れることは健全なことではなく、真偽の検討を要することだ。

戦闘後、もし李舜臣が自身の保身を望むなら、作戦失敗、即ち敗北を覆い隠す必要がでてくる。そのためには膨大な戦果がどうしても必要となってくる。100余隻という自称大戦果はそうした背景で成された報告である。こうした要素を勘案すると、やはり100余隻破壊という大戦果をそのまま受け入れることはできない。

そして、100余隻だった大戦果は後に編纂された『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)では400余隻というさらに巨大な数値に膨れ上がっている。
李舜臣等攻釜山賊屯、不克。倭兵屢敗於水戰、聚據釜山、東萊、列艦守港。舜臣與元均悉舟師進攻、賊斂兵不戰、登高放丸。水兵不能下陸、乃燒空船四百餘艘而退。鹿島萬戶鄭運居前力戰、中丸死。舜臣痛惜之。
『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条
このことから『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)の編者の立場は李舜臣を持ち上げろうという意図で書かれていることが判る。しかし、そのような編者でも、釜山の奪還に失敗したという事実を根本的に覆い隠すことはできなかったようで、釜山浦の戦いを「不克(勝てなかった)」と評価せざるをえなかった。この「不克」というのは敗北の婉曲表現である。敗北という直接的表現を使うことは李舜臣を持ち上げろうという意図を持った編者には出来なかったのだろう。

敗北に懲りたのであろうか、この戦い以後、李舜臣が釜山を攻撃することは二度と無かった。それどころか、これまで連続的に出撃を繰り返してきた李舜臣以下の朝鮮水軍は活動をパッタリと停止する。李舜臣が日本軍の補給を断つようなことは無かった。これにより釜山は安全化され、文禄・慶長の役が終決するまで日本軍の補給連絡上の根本拠点として機能し続けることとなる。

以上、ここまで見てきたとおり「釜山浦の戦い」は朝鮮水軍が敗北した戦いであることは明白だ。韓国では李舜臣を民族的英雄として崇め奉り、「23戦23勝」、「無敗の名将」と称えているが、実際のところ、それは虚構である。しかも、それは何もこの「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」に限ったことではない。「順天城の戦い」では、より明白に敗退しているし、その他日本軍の沿岸拠点への攻撃では尽く不成功に終わっている。だが、残念なことに、こうした事実が韓国で語られることはおそらく殆ど無い。韓国における歴史の評価は民族的自尊心の充足が極めて大きな要素となっており、民族的英雄である李舜臣が敗北しているという事実を受け入れることは容易ではないかもしれない。しかし、歴史は真実から目を背けることを永久に続けるならば、それはあまりにも非文明的行為と言わざるを得ない。

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2011年9月1日木曜日

Wikipediaに『釜山浦の戦い』を立てる

 

釜山浦の戦い - Wikipediaを新規に立てた。

この戦いは朝鮮王朝実録の『宣祖修正実録』でも「不克・・・(中略)・・・退(勝てずに退却した)」と書いてある。この表現は敗退の婉曲表現であって、要するに釜山浦の戦いは朝鮮水軍の敗退ってこと。

『宣祖修正実録』以外でもでも、李舜臣本人の記録を別にすれば殆ど景気のいいことは言っていない。

なのに、韓国では李舜臣の大勝利としている。おかしなことだ。その影響と思われるが、Wikipedia英語版でもDecisive Korean victory(朝鮮の決定的勝利)となっている。呆れた話だ。