2010年12月27日月曜日

(旧版)影響

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日本への影響について、文禄・慶長の役が豊臣政権の滅亡の原因のように述べられることが少なくない。 その理由として

  1. 出兵の出費が豊臣政権の財政事情を消耗させた。
  2. 出兵した西国大名が疲弊し、徳川家康は出兵しなかったため力を蓄え影響力を増した。
などが述べらえている。 しかし、これらは否定されなければならない。
  1. の否定理由は、秀吉死後も豊臣政権は莫大な資金を蓄えている事実があること。徳川家康は豊臣の資金を恐れ、豊臣秀頼に方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建をさせたりして出費させようとしたのは有名な話である。 それでも大坂の役で豊臣家は資金力にものをいわせて10万の浪人を雇い入れることができたほど資金は潤沢であった。
  2. の否定理由は、西国大名は文禄・慶長の役後、多くの出費を伴う行動を活発に行っている事実があること。例えば関ヶ原の戦いにおいて西国大名は多くの兵力を動員し東西両軍の主力として戦っている。また関ヶ原後、全国的に築城が極めて活発に行われているが、築かれた城郭の内、天守や高い石垣を持つ豪壮なものは、一般に東国大名の城郭よりも、むしろ西国大名の城郭に多い。さらに、西国大名達は盛んに大船の建艦競争も行っている(後に幕府が大船禁止令をだすほどの激しい建艦競争)。これらは何れも多額の出費を要することであり、もし文禄・慶長の役の軍役により西国大名が疲弊していたならこれらの行為は行えなかっただろう。そもそも、戦国時代開始以来、西国でも盛んに戦争が繰り替えされており、そのたびに各大名は多くの軍事動員を行っている。それらの軍役に比べて文禄・慶長の役における軍役が特別重いわけではない。むしろ国内で行われた各大名間の抗争のほうが、存亡をかけたもので、自己の生存のため最大限の軍役を行わなければならない。しかも、しばしば自国領が戦場になっているため、こちらのほうが荒廃するはずである。なのに文禄・慶長の役で特別に西国大名が疲弊したことになるのは奇妙な話である。
豊臣政権滅亡の原因は、秀吉が死去した時点で、徳川家康のような野心と実力を兼ね備えた人物が存在し、後継者の秀頼が幼児でしかなく、とても政権を統率できる状況になかったからに過ぎない。このような状況では、文禄・慶長の役が行われていたか、行われていなかったかに関わらず、豊臣政権が維持できた可能性は薄い。
現在の文禄・慶長の役についての研究や報道は、政治的意図により否定的なものにしなければならないという前提条件がつけられ、そのため恣意的に歴史が構築されることが多い。このような行為は歴史的事実を歪める作用をはたしている。

(旧版)戦争の終結

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8月18日には既に秀吉が没していた。このため在朝鮮諸将は帰国することとなるが、順天城の小西行長らは明・朝鮮水軍の妨害にあい順天から動けなかった。島津義弘らは順天城の友軍を救援するため水軍となって順天に向かった。その途上待ち伏せていた明・朝鮮水軍と露梁海峡で交戦する。 順天を海上封鎖していた明・朝鮮水軍が露梁海峡に出払った隙をみて順天城の日本軍は出帆し、南海島の南を回って脱出に成功する。諸将は釜山を経て全軍帰国を果たした。
  • 11月18日 露梁海戦 - 島津義弘、立花宗茂、小早川秀包対陳璘、李舜臣、鄧子龍

(旧版)三路の戦い

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慶長3年(1598年)各城郭の防衛体制が整うと帰朝之衆(小早川秀秋及び四国・中国・淡路衆)は帰国し、九州勢が在番して久留の計を実施。この年の内は本格的な進攻を行う予定はなかった。

 帰朝之衆が帰国したことについて、戦争に敗北したため退却を開始したかのような言説が存在するが、これは全くの誤りである。慶長の役発動前に発せられた作戦要務令ともいえる慶長2年(1597年)『2月21日付朱印状(立花文書他)』に城普請を担当する「帰朝之衆」について記述されているように、慶長の役開始前から決まっていた予定通りの帰国である。

 この時代の軍隊は、通常はそれぞれの領国か政権中枢部に駐在し、いざ敵に対し大規模攻勢をかけるときや、敵の攻勢に対する大規模救援を行う場合のみ、敵対勢力との境界付近に結集し大軍となって作戦を決行するものだ。帰朝之衆が帰国したのも、この慶長3年(1598年)の内は大規模攻勢の予定がなく、各倭城の防御体制も整ったため予定通り帰国したに過ぎない。
  • 蔚山城 10000人加藤清正
  • 西生浦城 5000人黒田長政
  • 釜山の本城 5000人毛利吉成・島津忠豊・相良頼房・伊東祐兵・高橋元種・秋月種長
  • 釜山丸山城 1000人寺沢正成
  • 竹島城・昌原城 12000人鍋島直茂・鍋島勝茂
  • 見乃梁城(唐島瀬戸口) 兵数不明柳川調信(宗の部将)
  • 固城 7000人立花統虎・小早川秀包・高橋統増・筑紫広門
  • 泗川城 10000人島津義弘
  • 南海城 1000人宗義智
  • 順天城 13700人小西行長・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島玄雅
兵力合計64700人[25]

その後の予定は3月13日付朱印状 立花文書』にあるように、2・3年に一度大軍を渡海させて進攻し敵に打撃を与えて疲弊させる長期計画であったようだ。「来年はご人数を指し渡し高麗都まで進攻する」と示されているように、翌慶長4年1599年にも大規模な進攻計画が予定されていた。
この進攻計画について、明・朝鮮も察知しており 宣祖修正実録7月1日に 「明年, 秀吉 領大兵, 進犯遼左, 此正先發制人之秋。」とあり、明・朝鮮軍はこの機先を制するための作戦を実施する。

是時,
東路明軍24000人, 朝鮮軍5514人 (東路軍計29514人)
中路明軍26800人, 朝鮮軍2215人 (中路軍計29015人)
西路明軍21900人, 朝鮮軍5928人 (西路軍計27828人)
水路明軍19400人, 朝鮮軍7328人 (水路軍計26728人)
明軍計92100人 朝鮮軍計20985人 共計113085人
資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。
(宣祖実録10月 12日)
  慶長3年1598年、9月から10月にかけ兵11万以上を動員し、蔚山・泗川・順天の三倭城を同時攻撃した。これは文禄・慶長の両役を通じて明・朝鮮軍が行った最大の作戦であった。また第一次蔚山城の戦いのおいて防車などの攻城具がなかったため大損害を出して攻略に失敗した苦い経験から攻城具を準備して攻略にかかった。だが、これを迎え撃つ日本の各倭城では、城郭の防御力強化工事、石火矢の配備など火器の増備、兵糧の備蓄が行われており、鉄壁の構えであった。このため何れの城も攻略に失敗し、特に泗川では島津軍に大敗を喫した。
 明・朝鮮軍による三倭城攻略作戦について、これを撤退する日本軍に対する追撃戦であるとする言説があるが、事実ではない。そもそも明・朝鮮軍は既に7月には三倭城攻略作戦のため行動を開始している。秀吉が死去するのは8月18日であり、この作戦が撤退する日本軍に対する追撃戦などという主張は時系列を無視したものである。日本軍が撤退の動きを始めるのは、三倭城の防衛に成功した後、撤退方針を伝える使者が10月に到着してからであり、戦闘が行われている時点では確固とした防衛体制をとっている。撤退しない軍隊に追撃戦などありえないことだ。
 明・朝鮮側も三倭城攻略作戦以前の段階で日本軍が撤退するとの認識は持っていない。もっとも、情報の一つとしては豊臣秀吉死去の情報が比較的早くから入っていたが、情報が入っていたことと、それを確かなものと認識しているかどうかは別である。第二次世界大戦において、ソビエトの情報部はドイツ軍のソビエト侵攻の情報を事前に察知しており、スターリン等国家の上層部に報告していた。しかし、スターリン等はこの情報を確かなものであるとの認識には到っておらず、実際にドイツ軍の侵攻が始まると、ソビエト軍は奇襲を受ける形になったことは広く知られた事実である。明・朝鮮側が豊臣秀吉死去にともなう日本軍撤退の動きを確かなものであるとの認識に到るのは三倭城攻略作戦に敗退した後になる。
 これは明・朝鮮水軍の行動を見れば判りやすい。三倭城攻略作戦の一環として小西行長等が守る順天城を9月19日から攻撃していた明・朝鮮軍であるが、10月7日に陸軍が退却すると、続いて水軍も西方に遠く離れた古今島まで退却している。ここで始めて日本軍撤退の動きを認識し、急遽順天城前洋に再進出して小西等日本軍の撤退を阻んだ。この明・朝鮮水軍の一連の行動は日本軍撤退の動きを順天城の戦い以前に認識していなかった証拠である。もし本当に順天城の戦いの時点で日本軍撤退の動きがあり、しかもこれを明・朝鮮軍が認識していたなら、一旦退却して再進出するような行動は取らなかったはずで、一貫性をもって海上封鎖を続けていただろう。
  •  第二次蔚山城の戦い - 加藤清正 対 東路軍麻貴、金応瑞
慶長3年(1598)9月後半以降、明・朝鮮軍は三倭城攻略作戦を開始する。倭城群の最東端に位置する蔚山城には明将麻貴率いる明軍24000人に金応瑞率いる朝鮮軍5514人が加わった計29514人の東路軍が差し向けられた。麻貴は先ず東萊の温井に兵を出して当方面の日本軍を牽制した後、蔚山に兵を転じ、9月21日(『乱中雑録』では明歴20日=和歴19日)から攻撃が開始された。蔚山城では前回の攻防戦の後、防衛体制が整えられており、鉄壁の構えで迎え撃つ。明・朝鮮軍による連日の攻撃に対し加藤清正指揮下10000人の日本軍は城を固く守り、雨のように銃弾を浴びせ、大鉄砲も発砲して迎撃し、数度にわたって撃退した。その結果、明兵の死傷者はその数を知ることも出来ないほどだった。このため明・朝鮮軍は城際で陣取ることができず、27日までに20町(約2.2km)ほど離れた場所まで引いて対陣した(20町というのは大鉄砲の射程を避けたか)。この時点で麻貴は蔚山城攻略の困難さを痛感し退却の意思を抱いている。やがて、泗川の戦いにおける中路軍大敗の報が伝わると勝算のない蔚山城攻略を完全に断念して慶州方面に撤退する。


第二次蔚山城の戦い史料
 
麻貴退師于島。淸正自去年受圍以後。聚諸陣軍兵。幷力堅守。大軍臨城。計無所出。乃卽退出本道。左防禦使權應銖報元帥云。本月十九日。麻提督掩擊東萊城內溫井等處之賊。二十日。移兵島山。只爇外柵。城將陷。賊丸如雨。天兵被害。不知其數。天兵日日挑戰。固守不出。不得已退師。大槩賊兵之衆。十倍於上年。城柵之險。又甚於前日。觀其兵勢。未知上策云。圍城一旬。賊勢日熾。一日李副總題送絶句于兵相云。蚌鷸持多日。王師久未旋。

趙慶男『乱中雑録』 

(前略)此面(蔚山)へも去廿一日ニ、人数七八万罷出候、雖然、及数度討果候之故、城際ニ陣取候事不成、廿町程引退、対陣候行と相見候、(後略)–
加藤清正書状(9月27日付、島津義弘・忠恒宛), 『島津家文書之二 九六九』

(前略)一 蔚山表之儀も、此方へ注進候、敵三万騎ニて押寄候處、大鉄炮ニて打立、手屓死人不知其数ニ付而、引退令対陣之由候、御手前悉被追崩通承候者、定而蔚山表も可爲敗北と存候、(後略)–
長束正家・増田長盛・徳善院玄以、連署書状(11月3日付、島津義弘・忠恒宛), 『島津家文書之二 九九〇』

“提督自內城退遁之後, 頗有畏怯之意, 方欲退陣 慶州 矣。”–
麻提督 接伴使 李光庭の報告, 『宣祖実録10月 2日』

“提督聞中路之敗, 將欲退守于 慶州 , 步兵則已爲發送, 不勝悶慮事。”–
麻提督 接伴使 李光庭の報告, 『宣祖実録10月 10日』

  • 泗川城の戦い - 島津義弘 対 中路軍董一元、鄭起龍
泗川の戦いは島津軍が明軍の火薬の暴発事故による混乱に乗じて一斉に突撃し、明・朝鮮軍に大打撃を与え潰走させた。
  • 順天城の戦い - 小西行長 対 西路軍劉綎、権慄、金晬,水路軍陳璘、李舜臣
順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するためあらたに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、明・朝鮮軍を後退させた。明・朝鮮軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。

(旧版)蔚山戦役

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作戦目標であった全羅道・忠清道の成敗を達成し、さらに京畿道まで進出した日本軍は、作戦予定に沿って慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄期に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に新たな城郭群を築いて久留の計を目指した。城郭群が完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌年慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。

築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明と朝鮮の軍56,900人が襲撃し、攻城戦を開始するが、急遽入城した加藤清正を初め日本軍の堅い防御の前に連日大きな損害を被り苦戦を強いられた。

蔚山城を強攻した明・朝鮮軍は多くの損害を出している。

  • 倭堅壁不出。島山視蔚山高,石城堅甚,我師仰攻多損傷。『明史朝鮮伝』[24]
  • 賊之防備甚密、城亦堅険、先登者不得出、在外之軍亦不得毀城、遊撃陳寅中大丸、士卒雖蟻附仰攻、而不能著足。(申欽『象村集』)
  • 外兵若至城下、則銃丸乱発如雨、毎日交鋒、天兵與我軍、死城下成積。(柳成龍『懲毖録』)
蔚山本城に砲撃したが効果が上がらなかった。(宣祖実録蔚山戦記事より)
  • 試放大碗口, 則山坂峻高, 砲石有礙, 不能直衝, 終日不拔云。(※大碗口とは明・朝鮮軍が用いた臼砲の一種)
  • 天兵與我軍, 攻打 倭賊 內城, 城甚堅險, 大砲不能撞破。
  • 欲以大碗撞破, 而城高勢仰, 不得施技。
このため明・朝鮮軍は強襲策を放棄し包囲戦に切り替える。このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。年が明けた翌1598年1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられていた。
しかし、1月3日毛利秀元等が率いる援軍が到着する。これにより明・朝鮮軍は早急に城を落とす必要を迫られ、その夜から翌4日朝にかけて総攻撃をかけるが、大損害を受けて攻撃は失敗した。もはや勝算無しと判断した楊鎬は撤退を決意し、明・朝鮮軍は撤退を開始する。日本軍は退却する明・朝鮮軍を追撃して戦果を拡大した(『宣祖実録』・1月22日付毛利秀元以下17将宛朱印状』・『清正高麗陣覚書』の吉川広家の活躍・『朝鮮軍陣図屏風』第三隻)。最終的に明・朝鮮軍の損害は20,000人に及び、戦いは日本軍の勝利となる。
諸将は一騎懸であったため十分な兵力を有していなかったこと、兵糧不足であったこと、鍋島・黒田に関しては居城の防備に不安を覚えていたこと、これらの理由と、日本軍は既に多くの戦果を得ていたこともあり追撃を終え帰還した。敵を悉く討ち果たすような徹底的追撃戦を望んでいた秀吉は不満であったようだ。それは朝鮮南部に明の大軍を誘引して殲滅することが慶長の役当初からの重要な戦略であったからだ。
蔚山城の戦いの後、立地上突出しすぎている、順天、梁山、蔚山の三城を援軍が困難故に放棄すべきという案(一月二六日付注進状)が、宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政、生駒親正、藤堂高虎、脇坂安治、菅三郎兵衛、松島彦左衛門、菅右衛門八、山口玄蕃頭、中川秀成、池田秀氏、長宗我部元親(これら諸将が率いる兵力は慶長の役開始時点で日本軍中の半数)、の連署で上申されたが、小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂等、の反対もあり、秀吉はこれを却下しその後も維持れることとなる(梁山放棄は認められる)。上申武将は叱責された。
  • 純軍事的観点から見れば、防御範囲を縮小することは防御を容易なものとするため妥当性のある見解のように思える。しかし、より高度な戦争遂行上の観点から見ると大きな問題が生じる。もしここで上申どおりに三城(特に実際に戦闘が行われた蔚山)が放棄されていたなら、明・朝鮮軍による蔚山城攻撃が倭軍を後退させるという大成果を上げた戦いであるかのようなプロパガンダの成立も可能となり、その後の戦争経緯に影響を生じるのである。その意味で秀吉が三城放棄案を却下した判断は正解である。
  • 三城放棄案について、これを在朝鮮日本軍の士気低下のように主張する言説があるが、これは根拠のないことだ。三城放棄案の内容に士気低下を述べた文言など全く存在しない。ただ軍事的観点から防御体制を最適化する事を述べたものである。防御拠点は集約化したほうが防御は容易であり、この案を上申した諸将はこうした観点から意見具申を行ったのだ。これを在朝鮮日本軍の士気低下のように主張するのは、あまりに恣意的な拡大解釈と言わざるを得ない。また、在朝鮮日本軍の士気低下説論者は、三城放棄案を在朝鮮諸将大多数の見解であるかのような印象を与える書き方をし、その上で在朝鮮日本軍全体の士気低下のように主張しているが、実際は上申諸将は兵力比で全体の半数に過ぎない。この案は恣意的な拡大解釈をされた上に大袈裟に強調されることがあるが、所詮却下された提案にすぎず、また却下された結果これといった不都合が生じたわけでもない。戦争経過に殆ど影響を与えなかったことであり、本来なら、それほど大袈裟に強調するほどの出来事ではない。
追撃で敵を悉く討ち果たすには至らなかったことと、三城放棄案に加え、後に帰国した目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直が蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」との報告に接すると秀吉は激怒し、処分が下された。 誤説「蔚山城の戦いで追撃が行われなかった」の検証 蔚山城の戦いで「追撃が行われなかった」。或いは「殆ど追撃が行われなかった」。福原ら目付衆が「追撃しなかったと報告した」などといった説が流布されているが、これらは誤説である。 蔚山城の戦いにおいて追撃戦が行われ戦果が拡大されたことは、日本・朝鮮双方の各種史料に記録されていることであり明確である。
  • 『1月22日付朱印状』には、追撃により数多くの敵を討ち取ったことが記されている。
  • 『宣祖実録』には、退却する明軍が30里にわたって日本軍の追撃を受け、大損害を受けた様子が記されている。
“本月初四日各營回軍事, 則已爲馳啓矣。 當日諸軍撤還之際, 水陸 倭賊 , 合兵追擊, 至于三十里之外。 唐軍死者無數, 或云三千, 或云四千, 其中 盧參將(盧繼忠) 一軍, 則以在後, 幾盡覆沒云, 而軍中諱言, 時未知其的數矣。 大抵無端撤軍, 賊乘其後, 蒼黃奔北, 自取敗衂, 弓矢、鎧仗, 投棄盈路, 以至藉寇, 安有如此痛哭之事? 言之無及– ・, 『宣祖実録』
  • 『清正高麗陣覚書』には、吉川広家が明軍の退路を寸断し、大戦果を上げる様子が記されている。
  • 『朝鮮軍陣図屏風・第三隻』にも、敗走する明・朝鮮軍を日本軍が猛追撃する様子が描かれている。
ところが「追撃による戦果拡大」を記した『1月22日付朱印状』が、なぜか「追撃が行われなかった」という誤説の根拠として引用されるので、これについて解説する。
一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届け候、一騎懸に付て、兵糧これ無く、人数これ無き故、悉くは討果さざる段、残り多く思し召され候事– ・, 『1月22日付朱印状』
見ての通り、実際のところ、この書状には「蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届け候、」と、追撃戦が行われ大戦果を上げたことが記されている。 秀吉が残念がったのは、「悉くは討果さざる段、残り多く思し召され候事」と記されているように、敵を殲滅するには到らなかったことであり、誤説で言われるような「追撃が行われなかった」などということはどこにも書かれていない。 むしろ秀吉は「追撃戦が行われ大戦果をあげた」ことを賞している。 次に、これまた「追撃が行われなかった」という誤説の根拠として引用される『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛書状』についても解説する。
一、蔚山へ唐人取り懸りに付て後巻の次第、唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候といへども、蜂須賀阿波守・黒田甲斐守、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候– ・, 『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛連署状』
福原長尭・垣見一直・熊谷直盛の三目付は「合戦仕ざる趣申上げ候」と、蜂須賀・黒田が合戦しなかったと秀吉に報告した。 しかし、誤説が言う「追撃しなかった」などとは一切報告していない。ところが誤説では「合戦仕ざる趣申上げ候」を「追撃しなかった」と勝手に言い換えている。 また、この書状にある「合戦しなかったと報告された」出来事は、「唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候」とあるように、少数の明軍部隊が太和江を越えて、高地上の日本の赴援軍に攻撃を仕掛けたときのことであり、追撃戦とは無関係だ。 『宣祖実録』にも1月3日に日明両軍の間に小戦闘が起こったことが記されている。
而初三日遙峯之賊, 漸漸流來, 或飛揚於賊壘越郊, 或列立於 箭灘 之南山。 又以精兵五六十, 下山底, 而天兵不敢逼, 一度相戰, 均解而退, 山頂之賊, 建旗屯宿。– ・, 『宣祖実録』
この小戦闘の様子は日本の赴援軍と明軍が太和江を挟んで対峙する様子を描いた『朝鮮軍陣図屏風・第二隻』の左下にも描かれていて、明軍騎兵の一部が太和江を渡り弓矢を射掛け、日本軍の鉄砲隊と射撃戦となっている。 このとき蜂須賀・黒田が実際に戦わなかったのか、それとも戦ったにも係わらず戦わなかったと報告されたのかは不明だが、明確なことは、これは日本の赴援軍が太和江の南の高地に到着した1月3日のことで、1月4日に行われた追撃戦時の出来事ではない。 にもかかわらず三目付が「追撃しなかったと報告した」などといった誤説が平然と流布されているのである。 以上、これまで述べたとおり、 日本・朝鮮双方の複数の史料に「追撃が行われ大戦果を上げた」ことが明記されており、逆に「追撃が行われなかった」とは記されていない。 蔚山城の戦いで「追撃が行われなかった。」或いは「殆ど追撃が行われなかった。」 福原長尭ら三目付が「追撃しなかったと報告した。」といった説が成立する余地はない。 史実は「蔚山城の戦いで追撃戦が行われて大戦果をあげた、だだし敵を殲滅するには到らなかったことに秀吉は不満に思った」であり、これを「蔚山城の戦いで追撃が行われなかった」などと言い換えるべきではない。

(旧版)全羅道・忠清道掃討

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8月19日の全州占領後、日本軍は北進して忠清道に入ると、右軍の内、加藤・黒田・毛利の軍、40000余を更に北に向かわせ、忠清道掃討を受け持つとともに、明・朝鮮軍への備えとし、左軍は、右軍から鍋島・長宗我部・池田・中川の諸勢を加え、主目標であった全羅道を北から南へとローラー作戦方式で掃討してゆく。また、陸に上がって戦っていた水軍部隊は海に戻り、東から西へと全羅道南岸域の掃討を進めた。

忠清道に進んだ北進隊では9月7日、黒田軍の先鋒隊が稷山において明軍と接触し交戦状態に入ると、黒田長政本体が駆けつけ戦闘に加わる。明軍にも援軍が加わったが、この時の明軍部隊は少数にすぎず、毛利秀元軍が赴援に駆けつけると衆寡敵せず水原方面に退却した。稷山での戦闘後、北進隊は京畿道に入り安城・竹山へと進む。

一方、陸海からの全羅道掃討作戦の最終段階で起こったのが鳴梁海戦である。漆川梁海戦で壊滅的打撃を被っていた朝鮮水軍は、三道水軍統制使に李舜臣を復職させたが、僅か13隻の戦船を残すのみであり、劣勢は明らかであった。9月16日、李舜臣は鳴梁海峡で数的優勢な日本水軍を迎え撃ち、関船のみで編成された日本水軍の選抜部隊を痛打したが、陸海から大軍で迫る日本軍を前ににこれ以上踏み留まることは不可能であり鳴梁海峡から退却する。これにより日本水軍は全羅右水営、珍島を占領し、鳴梁海峡を抜けて全羅道西岸に進出した。また南下していた陸軍も海南に達し、ここに作戦目標であった全羅道全域の掃討を達成する。

目的を達成した各日本軍は計画通りにそれぞれ反転し、次の目標として定められていた築城を、蔚山から順天の間で開始する。朝鮮側では、この日本軍の反転理由を掴むことができず、日本軍の罠ではないかと疑うほどであった。

  • 9月7日 稷山の戦い
稷山の戦いについて、この戦いで日本軍が破れ、半島南岸まで退却したなどという言説が存在するが、これは全く歴史的事実に反する。
この戦いに関する日本側の史料が日本軍の勝利と記録されていることはいうまでもない。[19]
一方の明・朝鮮側の記録で明軍の大勝利となっているのは、後に編纂された史料のみで、信頼性の高い一次史料によるならば、明軍の勝利とはなっていない。たとえば、『宣祖実録』においても、戦果を強調しているのは倭軍の先鋒(黒田軍内の先鋒隊)に対してのみで、「天安 大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵 等四將, 去夜發 稷山 前來, 唐兵亦多死者云。[20]」とあるように、戦場に黒田軍本体、さらには毛利軍が駆けつけるに及び、明軍は数的劣勢に陥ったため退却し、また多くの死者を出したことも記録されている。このころの明・朝鮮軍の防衛体制は崩壊しており、稷山に進出した明軍も2千から4千程度の少数に過ぎず、有力な日本軍と正面対決して勝利できるような存在ではなかった。

因みに、この時日本軍主力は遠く離れた全羅道の掃討を実施しており、何ら損害を受ける状況にはなく、稷山の戦いの影響で撤退するなどあり得ない。

この戦いの後、北進した加藤・黒田・毛利等は「賊於初十日, 搶掠 安城 , 進犯 竹山 境。[21]」とあるように、京畿道内の安城・竹山方面に前進した後反転し、全羅道の掃討を完了した日本軍主力も移陣し、全軍をもって半島南岸に築城を開始する。これは慶長の役発動前から予定されていた行動であり、8月の全州会議においてもこの方針が再確認され、ここでより具体的行動が定められ、定められた通りに行動した。

このころの明・朝鮮軍は、「賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。 安危、成敗, 決於江上, 而但令 崔遠 守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。[22]」とあるように、主防衛戦を漢江のラインに設定し、ここをなんとか死守しようとしていたが、極めて危機的状況にあった。しかし日本軍が自主的に反転したため命拾いしたのが実状である。

日本軍が反転した理由について、「今無故忽爲退遁。 萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術, [23]」と、朝鮮側では理解できておらず、日本軍が仕掛けた罠ではないかと疑い、明軍がその術中に陥らないか心配している。

  • 9月16日 鳴梁海戦
鳴梁海戦では日本水軍の内、鳴梁海峡に突入した関船部隊が、朝鮮水軍の迎撃により打撃を被った。だが、この戦いに参加しなかった主力艦である安宅船や小早船は何の損害もなく温存されており、日本水軍は依然として有力な戦力を有していた。沿岸部を制圧中の日本側地上軍の影響も加わり、李舜臣は全羅道北端まで逃走し、拠点である全羅右水営を失った挙句、日本軍の「全羅道成敗」を阻止することはできなかった。もちろん、この海戦により朝鮮水軍が制海権を奪い返したなどということはないし、戦力の劣勢状況を挽回させたわけでもない。日本軍の補給を遮断するといったこともない。この海戦は戦闘中の朝鮮水軍が日本水軍に打撃を与える局面だけを切り取って見たなら朝鮮水軍の勝利のように見える。しかし、戦略的観点から見ると水陸の日本軍が朝鮮水軍を駆逐し、作戦目標であった「全羅道成敗」を達成した戦いである。

(旧版)全羅道への進撃

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講和交渉の決裂後、先鋒の小西・加藤が慶長1年末から翌2年1月ごろに朝鮮に入っているが、主力の諸勢は4月以降漸次渡海し、7月には14万を越える大軍が釜山周辺に出揃った。 これに対し明でも麻貴を備倭大将軍として朝鮮に軍を派遣するが、その数は僅か1万7千に過ぎなかった(明史・朝鮮伝)。また同時に各地から兵を徴集するが、これが朝鮮に入るのは、だいぶ後のことになる。このため慶長の役が始まっても、明軍の戦力は日本軍に対抗出来るものではなかった。
釜山周辺に集結していた日本軍は7月16日漆川梁の海戦で朝鮮水軍を殲滅すると陸上でも全羅道を目指して進撃を開始する。このとき明・朝鮮軍では全羅道と慶尚道との道境付近にある南原城と黄石山城で守りを固めていた。

日本軍は左軍と右軍の2隊に分かれ西進し、左軍は8月15日南原城を攻め落とし(南原城の戦い)、右軍は8月16日黄石山城を攻め落とす。続いて両軍は全羅道の中核都市全州に向かって併進した。するとここを守る明将陳愚衷は恐れをなして逃走したため戦うことなく8月19日全州を占領する。ここで諸将は軍議を開き、全羅道及び忠清道を掃討し、その完了後は転進して沿岸部へ築城するという既定方針が再確認されるとともに、より具体的な事項が決定され、順次進発してゆく。

7月15日 漆川梁海戦 - 藤堂高虎対元均
8月13日 南原城の戦い - 宇喜多秀家対楊元
8月16日 黄石山城の戦い - 加藤清正、毛利秀元、黒田長政、鍋島直茂



慶長の役陣立

右手の備(右軍) 計64300人
加藤清正 10000人
黒田長政 5000人
鍋島直茂・勝茂 12000人
池田秀氏 2800人
中川秀成 1500人
長宗我部元親 3000人
毛利秀元 30000人
目付け、早川長政・垣見一直・熊谷直盛

左手の備(左軍) 計49600人
小西行長 7000人
宗義智 1000人
松浦鎮信 3000人
有馬晴信 2000人
大村喜前 1000人
五島玄雅 700人
蜂須賀家政 7200人
毛利吉成・勝永 2000人
生駒一正 2700人
島津義弘 10000人
島津忠豊 800人
秋月種長 300人
高橋元種 600人
伊東祐兵 500人
相良頼房 800人
宇喜多秀家 10000人
目付け、太田一吉・竹中重利

船手衆(水軍) 計7200人
藤堂高虎 2800人
加藤嘉明 2400人
脇坂安治 1200人
来島通総 600人
菅達長 200人
黒田如水及諸家の水軍若干之に属す

諸城守備隊大約 計20000人
西生浦城 浅野長慶 3000人
釜山城 小早川秀秋 10000人
安骨浦城 立花統虎 5000人
竹島城 小早川秀包 1000人
加徳城 筑紫広門 500人・高橋統増 500人

総計141500人

(旧版)慶長の役戦略

こちらに移植→慶長の役戦略 - “真相” 文禄・慶長の役←最新版はこちら講和交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始される。

一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
一、自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者可爲越度事。
– 慶長二年二月二十一日付朱印状より抜粋, 『立花文書』
出征諸将に発せられた2月21日付朱印状(立花文書他)によると、ここでも最終的な目標としているのは「大明国迄可被仰付事」とあるように、文禄の役と同様に明の征服である。ただし、その前に「自然大明国者共、(中略)、即時被討果」と、明の野戦軍主力を朝鮮南部において撃滅してから、明本国に進撃する計画が書かれている。

最終的な目標とは別に、当座の作戦目標は、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもで、これを達成した後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(九州の大名)を定めて、「帰朝之衆」と呼ばれる他の諸将(四国・中国の大名及び一門衆の小早川秀秋)は帰国するという計画であった。

当座の作戦目標となった全羅道は文禄の役で未征服に終わった地であり、朝鮮の水軍の他、義兵、官軍の出撃根拠地となった地であった。忠清道も釜山・漢城間の要路周辺以外は未征服地が多く、同様の役割を果たしていた。明本国へ進もうと思うならば、進行経路を側背から脅かすこれらの地を成敗し、反撃の芽を断っておく必要が生じる。全羅道成敗は既に文禄2年の晋州城戦役の際に懸案事項として上がっており、日本軍としては何としても成敗しなければならない場所といえる。

慶長に役の目的を南部四道の占領にあるとする説もあるが、そうした説を裏付ける文献を見つけることは出来ない。むしろ慶長2年から3年にかけて発せられた書状を見る限り、文禄の役のように土地の占領に拘るのではなく、2.3年に一度大軍を派遣し、進攻しては引き上げるといったヒット・アンド・アウェイ戦略を長期にわたり繰り返すことで、敵に戦略的打撃を与えて屈服させるのが目的であったのではないか。朝鮮の南部は朝鮮王朝の土台を支える豊かな土地で、ここを繰り返し荒らされたならば、朝鮮王朝は確実に疲弊し、やがては耐えることが出来なくなるだろう。慶長2年(1597年)の進攻作戦はその第一弾となる進攻である。

文禄2年(1593年)の戦役(第二次晋州城の戦い)は、釜山周辺域から出撃し、晋州城を落として破壊すると、続いて慶尚道西南部から全羅道東南部を掃討して撤収している。この経緯を見ると、限定的ながらも既にそういったヒット・アンド・アウェイ戦略の性質がある。この戦役はプレ慶長の役的なものと言えるかもしれない。

朝鮮に対する意義とは別に、日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略の明に対する意義は、「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事」とあるように、その野戦軍の朝鮮南部出撃を誘い殲滅することで抗戦能力を奪い、その後、進撃して征服するか、もしくは屈服させようという戦略であったと考えられる。

日本軍にとり朝鮮南部とは、兵站線の延伸を来さないため補給は容易であり、また兵力の集中運用も可能で、良好な状態で明との決戦に望む事ができる戦域といえる。冊封国である朝鮮に対し日本軍が進攻を繰り返したならば、宗主国たる明としては放置出来ず、日本軍を朝鮮から駆逐するため、本格的に派兵して戦いを望まざるを得ない。つまり、慶長の役における日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略は、明の大軍誘引のための戦略的挑発としての側面を持つのである。

慶長の役では日本軍の戦略の一つ一つが文禄の役の反省に立脚するものとなっている。
  • まず、慶長の役では朝鮮水軍を最初に殲滅し、その後に地上軍の進撃を開始した。これは文禄の役で朝鮮水軍に苦汁をなめさせられた反省に立脚する。
  • 次に、進攻方向は漢城を目指すのではなく、水陸から全羅道を目指した。これは文禄の役では漢城を目指して真っ直ぐに北上したために、全羅道が未入地として残り朝鮮側が水陸から反撃する策源地となった反省に立脚する。全羅道への進攻は朝鮮水軍の根拠地の破壊をも意味する。
  • もう一つ、慶長の役では土地の占領に拘るのではなく進攻して敵に打撃を与えては引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略をとる。文禄の役では土地の占領に拘ったため、兵站線が伸びて補給に苦しみ、また広い占領地に兵力が分散してしまい力を発揮できなくなった。こうした反省に立脚するものである。
  • 進撃開始時期が文禄の役の春とは違い秋の収穫期を前にした時期というのは、その年の収穫を敵に収穫させず、自軍が入手するという目的も考えられる。実際に、日本軍の撤収後、当方面に再展開した李舜臣は極度の兵糧不足にに苦しみ、通航する船や海上に避難した住民から食料を徴収して窮状をしのがざるを得なかった。

(旧版)講和交渉

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秀吉が提示した講和条件
1.明の皇女を迎えて天皇の后妃とする。
2.勘合貿易を復活させる。
3.日明両国の大臣が互いに誓詞を交換する。
4.朝鮮の北部4道と国都を返還する。
5.朝鮮の王子1人と大臣1人を日本の人質とする。
6.加藤清正が生け捕りにした朝鮮2王子を返還する。
7.朝鮮の大臣は日本に対して累世違却なき誓詞を書く。


明が提示した講和条件
1.日本軍は朝鮮から一兵も残さず撤兵すること。
2.豊臣秀吉を日本国王に冊封する。
3.朝貢は認めない。
  1. 交渉担当者(日本側;石田三成・小西行長等)(明側;沈惟敬等)日明の講和条件が折り合いそうもないため、欺瞞工作を用いて和平成立を目指す。
  2. 沈惟敬等、秀吉の「関白降表」を偽作、明に秀吉提示条件は伝えられず → 明、使者派遣。(正使李宗城・副使楊方亨) → 釜山まで達した正使李宗城は真相を知り逃亡。 → 副使楊方亨を正使に、沈惟敬を副使に仕立てる。
  3. 秀吉、来日した明使を1596年9月1日引見 → 明側提示条件に基づく詔勅文を聞いた秀吉は激怒し再征を決する。
  4. 沈惟敬等、交渉決裂を取り繕うため、秀吉の「謝恩表」を偽作 → 露見し沈惟敬は処刑される。
この間、石田・小西等の欺瞞工作を用いた講和交渉とは別に加藤清正は独自に朝鮮側と交渉を行っている。ここでは秀吉の示した条件を提示し、その受け入れを迫っている。この清正の行為を石田・小西は講和交渉を妨害するものと見做し秀吉に讒言する。そのため清正は帰国を命じられ蟄居させられる。この経緯により両者の関係を険悪なものとなった。
なお、講和交渉は日明間で行われ、朝鮮は交渉から排除されている。朝鮮にとり不利な条件を含む秀吉の提示七条件を知っていた朝鮮は、これら不利な条件に基づく和平の成立を恐れ、強行に反対した。 講和交渉期間の布陣
  • 西生浦 加藤清正
  • 林浪浦 毛利吉成・松浦鎮信
  • 機張 黒田長政
  • 釜山浦 毛利元康
  • 金海 鍋島直茂
  • 加徳島 小早川秀包・立花統虎
  • 安骨浦 九鬼嘉隆・脇坂安治
  • 熊川浦 小西行長・宗義智
  • 巨済島 島津義弘・福島正則
兵力合計43000人

(旧版)晋州城攻略

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文禄1年4月の進攻開始以来、日本軍は占領地を広げたが、全羅道を中心として隣接する慶尚道南西部、忠清道西部は未入地として残っていた。このため、ここが朝鮮側最大の反撃拠点となり、日本軍にとってこの地域の討伐が課題となった。

明との講和交渉が開始されることになると、文禄2年4月日本軍は漢城を引き払って全軍釜山周辺へ集結しており、大部隊を以て討伐を実施する環境が整う。

まず慶尚道南西部の中核都市であり、かつ全羅道への通路にあたる晋州城を攻め落とし、当地域の朝鮮側戦力を無力化することが目標となる。晋州城は前年10月にも攻めたが攻略に失敗したため、何としても攻略して前年の借りを返さなくてはならない城であった。

晋州城攻略作戦は在鮮日本軍の総力を結集した大規模なものとなり、一つの戦いとしては文禄・慶長の役全期間を通じて最大兵力の投入である。
(晋州城攻防戦#第二次攻防戦)

晋州城陥落後、日本軍は城を破壊し、周辺域の掃討に入る。慶尚道南西部、さらには全羅道との道境を越えて境界域をも掃討した。その後、釜山周辺に戻り倭城を構築し43000人をその守備に充て、他は帰国して講和交渉期に入る。




日本軍が亀甲車を使用する。

『常山紀談』後藤基次亀甲の車を造る事
晋州の城を攻めらるる時、黒田長政の士大将後藤又兵衛基次亀の甲といふ車を作り出せり、厚板の箱を拵へ内に強き切梁(きりはり)を設け、石を落しかけても箱の摧(くだ)けざる手当(てあて)をし、箱の内へ後藤入りて棒の棹を指し車を箱に仕かけ、進退自由に廻る様にして城際へ押詰石垣を崩して乗入けり。

『宣祖実録』[16]
又作大櫃爲四輪車, 賊數十人, 各穿鐵甲, 擁櫃而進, 以鐵錐鑿城。 時, 金海府使李宗仁, 膂力冠于軍中, 宗仁連殪五賊, 餘皆遁走。 城中之人, 束火灌油而投之, 倭因皆燒死。

『宣祖修正実録』
又作大櫃以藏兵, 下爲四輪車, 賊數十人着鐵甲, 擁鐵楯, 推車薄城, 以大鐵錐鑿城。 李宗仁 獨發矢, 矢必穿甲, 賊兵多死。 城上束蘊灌油, 放火投下, 燒其櫃, 櫃中賊盡殲。

黒田長政配下の後藤基次が亀甲車を作り城壁を崩して乗り入り、晋州城は落城した。朝鮮側記録では、日本軍が使用する“4輪の大櫃”に対して、朝鮮軍が油を落として炎上させ、日本兵を全滅させたことになっているが、中に入っていた後藤基次はその後も大坂の陣で戦死するまで生存している。

(旧版)明軍の参戦

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明軍進路
明軍は1月7日から小西行長の守る平壌城を攻撃し、8日には各城門を突破した。日本軍は北辺の万寿台、乙密台に退却して防戦した。明軍は万寿台、乙密台を攻撃するが多くの犠牲を出して撃退された。ここで李如松は「退路を与えるから、城を明け渡せ」と通知する。夜、日本軍は一斉に退却を開始した。明軍は追撃隊を差し向けたが小西等は漢城まで退却することに成功した。明軍はさらに漢城目指して進撃する。これに対し日本軍は兵力を集結し漢城に迫った明軍を碧蹄館の戦いで破る。

明軍編成
  • 兵部侍郎 宋応昌 爲経略軍門
  • 都督同知 李如松 爲提督軍務
  • 副総兵 楊元 爲左協大将, 副総兵 王有翼 、副総兵 王維禎 、参将 李如梅 、参将 李如梧 、参将 楊紹先 、先鋒副総兵 査大受 、副総兵 孫守廉 、参将 李寧 、遊撃 葛逢夏 等, 咸統于 元
  • 総兵 李如柏 爲中協大将, 副総兵 任自强 、参将 李芳春 、遊撃 高策 、遊撃 錢世禎 、遊撃 戚金 、遊撃 周弘謨 、遊撃 方時輝 、遊撃 高昇 、遊撃 王洞 等, 咸統于 如栢
  • 副総兵 張世爵 爲右協大将, 副総兵 祖承訓 、副総兵 呉惟忠 、副総兵 王必迪 、参将 趙之牧 、参将 張應忠 、参将 駱尙志 、参将 陳邦哲 、遊撃 谷燧 、遊撃 梁心 等, 咸統于 世爵
  • 参将 方時春 爲中軍, 備禦 韓宗功 爲旗皷官, 兵部員外郞 劉黃裳 、兵部主事 袁黃 爲贊畫, 戶部主事 艾維新 督餉
兵合43000余人, 繼出者8000人
是時 平壤 屯賊, 可萬數千, 竝我民爲兵, 以張軍勢。 経略計以三倍衆擊之

(旧版)慶尚道南部水陸の戦い

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  • 1期;4月13日の釜山攻略から日本軍一番から八番までの各隊は、朝鮮国の心臓部漢城を目指しまっしぐらに進撃。進路以外はほぼスルー。
  • 2期;5月初めの第一次漢城会議の方針(朝鮮全土制圧)に沿って慶尚道南部では一部部隊が釜山から西方に向かって水陸から支配域の拡大を目指す。泗川付近まで占領していたようだ(その先は全羅道へ続く)。これに対し海上では李舜臣等が反撃(一次、二次出撃)、陸上では郭再祐等が反撃(鼎津の戦い)。日本軍の進撃を阻止。
  • 3期;日本軍の西方進出を阻む朝鮮水軍を撃滅するため、九鬼・脇坂・加藤嘉明を加え、本格的に水軍を編成し、7月7日閑山島海戦となるが日本水軍敗退。海戦を停止して巨済島に築城を開始する。
  • 4期;日本軍は8月の第二次漢城会議の方針(占領地不拡大と要路への兵力集中)に沿って、慶尚道南部でも釜山付近まで撤収する。ところが、この結果李舜臣等の朝鮮水軍は釜山への攻撃が可能となり、釜山の攻略を目指し8月29日海上から攻撃する。この攻撃を日本軍は撃退するが、停泊船舶に損害を受けた。そのため釜山の安全を確保するため外郭防衛圏形成の必要性が生じる。
  • 5期;日本軍は釜山西方に外郭防衛圏を形成するため、九番隊(+α諸隊含む・豊臣秀勝は既に病死)を西方に向け進撃する。これが一連の第一次晋州城戦役(10月5日晋州城の戦い)で、晋州城の攻略には失敗するが釜山西方に外郭防衛圏は形成される。
  • 6期;以後、朝鮮水軍の攻撃は、熊川から巨済島付近に限定され、釜山の安全地帯化に成功する。
李舜臣の作戦行動
一次出撃 
玉浦海戦5月7日 以下元均と合同
合浦海戦5月7日
赤珍浦海戦5月8日

二次出撃
泗川海戦5月29日
唐浦海戦6月2日
唐項浦海戦6月5日 以下李億祺が加わる
栗浦海戦6月7日

三次出撃
閑山島海戦7月7日
安骨浦海戦7月9日

釜山攻撃8月29日

熊川攻撃1593年2月10日・12日・18日・22日・3月6日

(旧版)占領地の拡大と兵力分散

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日本軍は広域に占領地を拡大すると、各地に兵力を分散させることとなり、補給線は伸び補給が滞った。伸びた補給線上の拠点には数百人づつの兵が置かれるが、この程度の兵力では、各地で起こった義兵に兵力で劣り、しばしば苦戦する事態が見受けられるようになる。 この問題に対処するため諸将は漢城で会議を開き、占領地拡大策を停止し、主要都市と補給路上に兵力を集中する方針に切り替えた。しかし補給の滞りは解消されず各地で兵糧不足に悩まされた。

出征軍兵士のほとんどは温暖な西日本出身であり、冬になると寒気に悩まされ、また疾病が多く起こり戦闘よりも病気により多くの兵が失われた。

十二月十日頃の釜山~漢城間の配置
漢城 増田長盛、石田三成、大谷吉継
陽智 中川秀成、宇喜多秀家
竹山 福島正則
忠州 蜂須賀家政、生駒親正
聞慶 長宗我部元親
咸昌 長宗我部元親
尚州 戸田勝隆
善山 宮部長煕
仁同 木下重堅、南條元清
大丘 稲葉貞通、斎村広道、明石則実
密陽 別所吉治、岐阜衆(旧豊臣秀勝臣下か)
東菜 岐阜衆(旧豊臣秀勝臣下か)
釜山 百々三郎左衛門(百々綱家と同一人物か?)、三輪五右衛門(旧豊臣秀勝臣下)
十二月十日付朱印状『鍋島直茂譜考補』より

初期の義兵
慶尚道:郭再祐 鄭仁弘
全羅道:高敬命(第一次錦山城の戦いで戦死) 金千鎰(第二次晋州城の戦いで戦死)
忠清道:趙憲(第二次錦山城の戦いで戦死)

(旧版)朝鮮全土の平定を目指して

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上陸から20日あまりで李氏朝鮮の王都である漢城が陥落すると、日本の諸将は漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる朝鮮八道の平定作戦を定め、漢城を出陣していった。

  • 平安道 一番隊 小西行長等
  • 咸鏡道 二番隊 加藤清正等
  • 黄海道 三番隊 黒田長政等
  • 江原道 四番隊 森吉成等
  • 忠清道 五番隊 福島正則等
  • 全羅道 六番隊 小早川隆景等
  • 慶尚道 七番隊 毛利輝元等
  • 京畿道 八番隊 宇喜多秀家等
一番隊・二番隊・三番隊は共同して、5月11日に北に向かって進撃を開始し、5月18日に臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を撃破(事前に交渉し仮道入明を要求)。5月27日に開城占領、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と占領。進撃を続ける日本軍が平壌に迫ると朝鮮国王宣祖は遼東との国境で鴨緑江に面した義州へと逃亡し、明に救援を要請する。

平安道に進んだ一番隊・二番隊は、6月8日に大同江の畔に到達。平壌には左議政尹斗寿・都元帥金命元ら10000人の朝鮮軍が防衛体制を整えていた。ここで小西・宗は朝鮮側に和平交渉を呼びかけ「日本は朝鮮と戦うつもりはなく、願いは仮道入明である」と伝えたが朝鮮側は応じず、12日朝鮮軍は大同江を渡り夜襲を敢行し宗軍に犠牲が出た。14日朝鮮軍は再度夜襲をかけ、不意打ちを受けた小西・宗の軍は混乱したが、黒田長政が救援に駆けつけると形勢は逆転した。敗走する朝鮮兵が王城灘から大同江の浅瀬を通って平壌に逃げ込むのをみて渡河可能点を知ると王城灘を占領し攻撃態勢を整えた。15日夜、尹斗寿や金命元は平壌の防衛は困難と判断し市民を脱出させた後平壌から撤退する。16日、日本軍は大同江を渡って平壌を占領し、ここで進撃を停止した。

開城占領まで行動を共にしていた二番隊は咸鏡道方面へ進路を転じ、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り咸鏡道を平定した。当地の朝鮮人鞠世弼や鞠景仁は朝鮮王朝に反旗を翻し、臨海君・順和君の二王子を捕らえて日本軍に帰順する。さらに加藤清正は朝鮮東北国境の豆満江を越えて女真族の地オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。
四番隊は金化において助防将元豪を敗死させ江原道を完全制圧した。

(旧版)上陸開始から漢城占領まで

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天正20年(1592年)4月12日、先陣の一番隊は対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸した。釜山には1000人の朝鮮軍が守っており、小西・宗は仮道入明を要求するが朝鮮側は応じず、翌13日に総攻撃をかけて攻略した(釜山鎮の戦い・鄭撥戦死)。釜山陥落をみた慶尚左水師朴泓は左水営と配下の水軍を捨て逃亡。4月14日に東莱に対し仮道入明を要求し朝鮮側は応じず攻略した(東莱城の戦い・宋象賢戦死)。4月15日に機張、左水営占領、4月17日に梁山に入ると鵲院の隘路で密陽府使朴晋の軍を一蹴し、4月18日に密陽、その後に大邱、仁同、善山を次々と占領する。朝鮮朝廷は李鎰を慶尚道巡辺使として4000の兵を授けて派遣する。尚州周辺で民衆を徴募した兵と合わせて6000。これを4月24日に尚州郊外で撃破(尚州の戦い李鎰敗走)。4月27日に慶尚道から鳥嶺を越え忠清道へ進軍、弾琴台の戦いで迎撃に出た申リツ率いる8000の朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進み5月1日に麗州占領後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌5月3日には首都漢城に入城、後続諸隊も続々と漢城に入った。
秀吉の元に緒戦の勝報が届くと、秀吉は出征諸将の戦功を賞賛するとともに、占領地において、放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲を禁止、逃散した民衆の郷里に還往する者への米銭等の賦課を禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと、捕獲した男女があればこれを放還すべきこと、等を命じた。『鍋島家文書』『毛利家文書』『紀州徳川家文書』

朝鮮国王宣祖は日本軍が漢城に入城する前に逃亡しており、朝鮮王朝の圧政に苦しんでいた民衆は、国王の脱出と同時に、景福宮、昌徳宮、昌慶宮の三王宮、官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし火を放っていた。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。(王宮が日本軍入城以前に放火されていたことは日本側記録にもあり。吉見家朝鮮陣日記 吉野日記(松浦家臣吉野甚五左衛門記))

(旧版)出兵準備

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天正19(1591)年1月20日、秀吉は全国に造船命令を発する。
  • 一、海に面した国々は東は常陸から、北は秋田から、それぞれ九州まで、石高10万石について大船二艘を用意すること。
  • 一、直轄領は10万石について大船三艘、中船五艘を作る。
  • 一、水手(船員)は浦ごとに100軒について10人を出す。
12月5日山内一豊(遠江掛川)松下吉綱(遠江頭蛇寺)に命じ、大井川河口にて建造中の船舶は、長さ19間だったのを18間に改め、幅は依然6間とする。日本戦史40
また同年、秀吉は出兵の本拠地として肥前国名護屋城(佐賀県鎮西町)を、朝鮮半島への中継地として壱岐島風本に勝本城、対馬府中に清水山城、釜山を望む対馬北端大浦の撃方山に撃方山城の建設を始め、出兵開始までに完成させた。
舟奉行(文禄の役初期に渡海軍を円滑に輸送する役割)
  • 高麗舟奉行・・・早川長政、毛利高政、毛利重政。
  • 対馬舟奉行・・・服部一忠、九鬼嘉隆、脇坂安治。
  • 壱岐舟奉行・・・一柳可遊、加藤嘉明、藤堂高虎。
  • 名護屋舟奉行・・・石田三成、大谷吉継、岡本宗憲、牧村政治。『 鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書』
(後に戦局の進展に伴い服部は釜山に移り、九鬼・脇坂・加藤・藤堂は水軍を専管する。)
  今次の出征は船舶甚だ肝要なれば多数に準備したるをその功とし、諸部隊の船舶を録上して之を船奉行に交付しその指図を受けて逐次渡海すべく朝鮮の地に上陸をしたならば、各隊の船舶には自家の奉行一人づつを附し対馬に送還し後続部隊を乗船せしむべし。『日本戦史 毛利家文書』
正月5日、在京の諸将に国に就て征外の準備を為さしめ、加藤清正に題目(南無妙法蓮華経)の旗、小西行長に良馬を賜う。この2人は年来征外の先鋒を希望していた。『日本戦史41』 秀吉、在陣地の地下人・百姓等の逃散を禁止し、押買押売および乱暴狼藉の連中は「一銭切(銭一文を奪っても死罪に処する)」にすべきこと。また、その他の法度に対する違反者も厳罰に処することを通達。『毛利家文書』
日本軍の編成
出兵を前に、九州・四国・中国地方の大名を主力とした以下の戦闘序列が定められた。
一番隊18700人 4月12日釜山上陸 翌日攻略小西行長7000人(肥後宇土) 宗義智5000人(対馬府中) 松浦鎮信3000人(肥前平戸) 有馬晴信2000人(肥前日野江) 大村喜前1000人(肥前大村) 五島純玄700人(肥前福江)
二番隊20800人 4月17日釜山上陸加藤清正8000人(肥後隈本) 波多信時2000人(肥前貴志岳) 鍋島直茂10000人(肥前佐賀) 相良頼房800人(肥後人吉)
三番隊12000人 4月18日金海上陸黒田長政6000人(豊前中津) 大友吉統6000人(豊後府内)
四番隊14000人 毛利吉成2000人(豊前小倉) 島津義弘10000人(大隈栗野) 高橋元種・秋月種長1000人(日向宮崎・日向高鍋) 伊東祐兵・島津忠豊1000人(日向飫肥・日向佐土原)
五番隊24700人 (四国衆)当初は来島兄弟も属す福島正則5000人(伊予今治) 戸田勝隆4000人(伊予大洲) 長宗我部元親3000人(土佐浦戸) 蜂須賀家政7200人(阿波徳島) 生駒親正5500人(讃岐高松)
六番隊15700人 4月19日釜山上陸小早川隆景10000人(筑前名島) 小早川秀包1500人(筑後久留米) 立花宗茂2500人(筑後柳川) 高橋統増800人(筑後三池) 筑紫広門900人(筑後福島)
七番隊30000人 4月19日釜山上陸 (七番までが御先衆『日本戦史朝鮮役(鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書)』)毛利輝元30000人(安芸広島)
八番隊10000人 5月2日釜山上陸宇喜多秀家10000人(備前岡山)
+α八番隊帯同諸隊9200人(軍監として八番隊に帯同し漢城に入る)石田三成2000人(近江佐和山) 当初は名護屋舟奉行増田長盛3000人(近江水口) 当初は名護屋舟奉行大谷吉継1200人(越前敦賀) 前野長康2000人(但馬出石) 加藤光泰1000人(甲斐甲府)
九番隊11500人 豊臣秀勝8000人(美濃岐阜)九月九日病没後織田秀信が継ぐ?細川忠興3500人(丹後宮津)
+α九番隊帯同諸隊13970人(主に九番隊に帯同し慶尚道南部の平定を担当)長谷川秀一5000人(越前東郷) 木村重茲3500人(越前府中) 早川長政250人(近江?) 当初は高麗舟奉行毛利高政300人(播磨明石郡?豊後日田玖珠?) 当初は高麗舟奉行亀井茲矩1000人(因幡鹿野) 糟谷武則200人(播磨加古川) 片桐且元200人(播磨?) 片桐貞隆200人(播磨?) 太田一吉120人(美濃?)(越前?) 古田重勝200人(近江日野) 新庄直頼300人(近江大津) 小野木重勝1000人(丹波福知山)平壌方面に配置か高田治忠300人(丹波何鹿郡上林?) 藤掛永勝200人(丹波氷上郡小雲?)(丹波何鹿郡上林?) 岡本良勝(宗憲)500人(伊勢亀山) 当初は名護屋舟奉行牧村利貞700人(伊勢岩出) 当初は名護屋舟奉行
釜山・漢城間の諸隊15550人(主に釜山から漢城間の要路警護と秀吉渡海時の御座所普請を担当)服部一忠800人(伊勢松坂) 当初は対馬舟奉行一柳可遊400人(伊勢桑名) 当初は壱岐舟奉行浅野幸長3000人(若狭小浜) 竹中重利300人(美濃長松) 稲葉貞通1400人(美濃郡上) 中川秀政3000人(播磨三木) 宮部長煕2000人(因幡鳥取) 垣屋恒総400人(因幡浦住) 木下重堅850人(因幡若桜) 南条元清1500人(伯耆久米郡岩倉城) 幼少の南条元忠(伯耆羽衣石)の名代斎村広道800人(但馬竹田) 別所吉治500人(但馬八木) 明石則実800人(但馬城崎)明石左近?明石守延?明石元知?[1][2][3] 谷衛友450人(丹波山家) 石川貞通350人(丹波天田郡)参考[4]
船手衆(水軍)9450人 九鬼嘉隆(志摩鳥羽)1500人 当初は対馬舟奉行堀内氏善(紀伊新宮)850人杉若伝三郎(紀伊田辺)650人桑山重勝・桑山小伝次(貞晴?)(紀伊和歌山)1000人 <文禄元年には重勝は高齢で、実際に出陣したのは嫡孫桑山小藤太(一晴)(嫡子一重は既に死去)(庶流(重勝次男)元晴も出征?)>桑山家参考[5][6] 藤堂高虎(紀伊粉河)2000人 当初は壱岐舟奉行脇坂安治(淡路洲本)1500人 当初は対馬舟奉行、続いて陸路漢城付近まで進出、次に南岸に戻り船手となる。菅野正影(淡路岩屋)250人(菅ノ正陰、菅正影、菅正陰) 『天正記』では父菅達長(菅平右衛門)参考[7] 加藤嘉明(淡路志知)1000人 当初は壱岐舟奉行来島通之・来島通総(伊予来島)700人 当初五番隊に属し7月16日付朱印状(毛利家文書之三926)で舟手に配属
朝鮮渡海勢・合計205570人 九州・四国・中国衆を主力に、東は越前・美濃・伊勢・まで 名護屋在陣勢・合計102415人 東国衆、秀吉旗本衆、豊臣秀保 総計307985人(甫庵太閤記)
※文禄2(1593)年渡海 上杉景勝5000人(越後春日山) 伊達政宗1500人(陸奥岩出山) 佐竹義宣3000人(常陸水戸)5月渡海令下り、6月渡海する。備考安国寺恵瓊
京畿の留守・30000余人 豊臣秀次・中村一氏・堀尾吉晴・池田輝政・田中吉政等『日本戦史朝鮮役』

(旧版)朝鮮の国防策

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朝鮮では北方国境地帯における女真族との状態的な紛争に対処するため有望な武将は北方国境地帯に配置されていたが、秀吉軍の侵入に備えて慶尚道・全羅道・忠清道に諸将を配置転換し、特に慶尚道永川・清道・三嘉・大邱・星州・釜山・東莱・安東・尚州の兵営と城砦に増改築が加えられ、日本に近い沿岸各道の水営(水軍)には水師(水軍司令官)として有望な人材を配置した。このうちの全羅左水師に抜擢されたのが李舜臣で、1591年2月13日のことである。1591年6月には宗義智自ら釜山を訪れ、秀吉の征明戦争が近日決行されることを警告。また、文禄の役開始約6ヶ月前の1591年10月24日には、朝鮮は明に対し「(朝鮮は)沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。日本から侵犯を受ければ撃滅いたします。朝廷(明)も警戒してください。」といった旨の上奏文を携えた使節を送っている。(『簡易集』巻1「辛卯奏」)

朝鮮水軍の配置
慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻

※板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当(板屋船の隻数は金在瑾『亀船』に掲載された推定値。)

(旧版)朝鮮との交渉

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明の征服とアジア諸国の服属を企図していた豊臣秀吉は、1587年九州征伐に際し、臣従した対馬の領主宗氏に「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を実現させるよう命じた。

交渉に当たった対馬の宗氏は、これを何とか穏便に済まそうとして、秀吉が求める「朝貢使」の派遣を秀吉の全国統一を祝う「祝賀使」の派遣にすり替えて要請すると、朝鮮としても日本側の状況を探りたい事情もあり1590年使節を派遣した「賊探使」。

もっとも朝鮮側にしてみれば使節は表向きが「祝賀使」であり、実態は「賊探使」であり、秀吉に対して「朝貢」したつもりも「服属」したつもりも無かったのだが、この朝鮮使節を宗氏は「朝貢使」と称して秀吉に謁見させた。これは秀吉からしてみると、朝鮮が要求に応じ「朝貢使」を派遣し「服属」してきたことになり、以前からの要求通り朝鮮に対し征明の先導(征明嚮導)を命じた。

ここで困窮したのは虚偽の報告をしていた宗氏で、思案の末、朝鮮には秀吉の要求を「途(みち)を仮(か)す」(假途入明)とすり替えて要請したが、建国以来明に服属する朝鮮は(征明嚮導)であれ(假途入明)であれ、要求には応じなかった。これは秀吉にしてみれば朝鮮が「服属」の誓約に違反したことになる。このためまず朝鮮を制圧し、然る後に明に攻め入る方針を定めた。

朝鮮では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。

(旧版)征明構想の萌芽

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日本に於ける征明構想は何時芽生えたのだろうか?
秀吉の主君織田信長は天下統一の目処がたった1582年(天正10)イエズス会宣教師に向かって「毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後、一大艦隊を編成して支那を征服し、諸国をその子達に分ち与へん」と宣告している(『イエズス会日本年報』)。同様の征明構想を秀吉に対しても語っていた可能性は十分に考えられる。本能寺の変の後、信長の後継者となった秀吉は信長の天下統一事業と共に征明構想をも受け継いだといえる。
秀吉自身の征明構想について現存する史料上確実なものは、紀伊・四国を平定し関白となった1585年(天正13年)、家臣一柳末安に宛てた書状の中で「日本国は申すに及ばず唐国まで仰せ付けられ候、心に候か。」(伊予小松一柳文書)と記録されているのが最初のものである。
1586年(天正14)には日本イエズス会の副管区長ガスパール・コエリョらに「日本を統治することが実現したらならば、日本は弟の秀長に譲り、自分は朝鮮と支那を征服することに専念したい(『イエズス会日本年報』)と告げている。
文禄・慶長の役について、何故このような外征を行ったのか? これについて、それほど複雑な理由説明の必要があるとは思わない。海を渡って戦争に勝利し、より広大な領土を手に入れ、より多くの人民を支配し、より多くの富を手に入れ、より強大な軍隊を麾下に置き、これにより名声を手に入れ、名を後世に残すためである。世界史的に見ると、武力によって自国や自地域を統一した政権が、更に外に向かって拡張を図ることは全く珍しいことではない。ギリシャを統一したアレクサンドロス3世、モンゴルを統一したチンギス・カン、満州を統一したヌルハチ、中央アジアを統一したティムール、イタリア半島を統一したローマ帝国、中東を統一したアケメネス朝ペルシャ等、例を挙げれば枚挙に暇がない。武力によって力と名声を手に入れてきた指導者にとっては、これらの行為は名誉なことであり、自らの名を歴史に残すことを可能とする行為である。織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、日本国内でも武力によって力と名声を手に入れてきたし、自国統一を成し遂げた後に、さらに多くの力と名声を手に入れるために外征を開始することは何ら不思議なことではない。特に当時はスペイン等のヨーロッパ諸国が大洋を超えて遥か遠隔地に対して征服活動を行っており、このことを信長も秀吉も知らないはずはなく、ならば日本から対馬海峡を越えて征服活動を行うことが、それほど困難なことではないと考えたとしても何も不思議なことではない