2010年12月27日月曜日

(旧版)慶尚道南部水陸の戦い

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  • 1期;4月13日の釜山攻略から日本軍一番から八番までの各隊は、朝鮮国の心臓部漢城を目指しまっしぐらに進撃。進路以外はほぼスルー。
  • 2期;5月初めの第一次漢城会議の方針(朝鮮全土制圧)に沿って慶尚道南部では一部部隊が釜山から西方に向かって水陸から支配域の拡大を目指す。泗川付近まで占領していたようだ(その先は全羅道へ続く)。これに対し海上では李舜臣等が反撃(一次、二次出撃)、陸上では郭再祐等が反撃(鼎津の戦い)。日本軍の進撃を阻止。
  • 3期;日本軍の西方進出を阻む朝鮮水軍を撃滅するため、九鬼・脇坂・加藤嘉明を加え、本格的に水軍を編成し、7月7日閑山島海戦となるが日本水軍敗退。海戦を停止して巨済島に築城を開始する。
  • 4期;日本軍は8月の第二次漢城会議の方針(占領地不拡大と要路への兵力集中)に沿って、慶尚道南部でも釜山付近まで撤収する。ところが、この結果李舜臣等の朝鮮水軍は釜山への攻撃が可能となり、釜山の攻略を目指し8月29日海上から攻撃する。この攻撃を日本軍は撃退するが、停泊船舶に損害を受けた。そのため釜山の安全を確保するため外郭防衛圏形成の必要性が生じる。
  • 5期;日本軍は釜山西方に外郭防衛圏を形成するため、九番隊(+α諸隊含む・豊臣秀勝は既に病死)を西方に向け進撃する。これが一連の第一次晋州城戦役(10月5日晋州城の戦い)で、晋州城の攻略には失敗するが釜山西方に外郭防衛圏は形成される。
  • 6期;以後、朝鮮水軍の攻撃は、熊川から巨済島付近に限定され、釜山の安全地帯化に成功する。
李舜臣の作戦行動
一次出撃 
玉浦海戦5月7日 以下元均と合同
合浦海戦5月7日
赤珍浦海戦5月8日

二次出撃
泗川海戦5月29日
唐浦海戦6月2日
唐項浦海戦6月5日 以下李億祺が加わる
栗浦海戦6月7日

三次出撃
閑山島海戦7月7日
安骨浦海戦7月9日

釜山攻撃8月29日

熊川攻撃1593年2月10日・12日・18日・22日・3月6日