2014年9月30日火曜日

井邑軍議と鳴梁海戦、同一日付が示すもの

慶長2年(1597)9月16日に全羅道掃討中の諸将が会合し、掃討任務完了後の築城予定について決定した“井邑軍議”の決定事項を報告した書状について解説し、その日付が鳴梁海戦と同一であることが何を示すかについて述べる。

このことについて述べようと思えば、まず慶長の役で日本軍がいかなる戦略目標をもって行動していたかを初めから述べて行かなければならない。

文禄の役の後、続けられていた講和交渉は決裂し、再征が決定した。これが慶長の役である。


   赤国(全羅道)不残悉一篇ニ成敗申付、青国(忠清道)其外之儀者、可成程可相動事。
   右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
(慶長二年)二月二一日付・豊臣秀吉朱印状』
慶長2年2月21日、豊臣秀吉が全軍に発令した戦略方針は、全羅道を残らず徹底的に掃討し、なるべく忠清道等にも侵攻する。それが完了したならば朝鮮南岸地域に城郭群を帰国予定の大名に担当を割り振って構築し、完成後は在番の大名以外は帰国するというものであった。

そして、こうした侵攻と撤収(ヒット・アンド・アウェイ)を長年にわたって何度も反復することで、敵を疲弊させ、その抗戦能力と抗戦意志を破壊し屈服させるというものだ。(慶長の役における日本軍戦略についての詳細は、私のHP“真相” 文禄・慶長の役・慶長の役戦略を参照のこと)

慶長2(1597)年6~7月にかけて遠征軍主力が渡海して慶長の役は本格化する。7月、漆川梁海戦で日本水軍は決定的勝利を得て制海権を獲得すると、水陸から全羅道へ向かって進攻が開始され、8月半ばに南原城と黄石山城を抜いて、下旬全羅道北部の全州へ入る、ここで全州軍議か開かれ、先に忠清道へ向かい、その後に全羅道掃討を行うことが決する。

この方針を受け、9月上旬までに、忠清道での掃討任務を成功裏に終えた陸軍諸将は、全羅道に戻り、井邑という場所に集まって、今後の全羅道掃討方針と、その完了後の倭城群構築について協議した。その決定事項を書き記し、豊臣政権中枢に送付したのが、この9月16日付の陸軍諸将連署状である。

原文
      謹而奉致言上候、

      先度自全州御使衆ニ如申上候、青国(忠清道)へ相動、国中過半発向仕、夫ゟ赤国(全羅道)うち相残こほり〳〵、各至割付、発向仕半ニ御座候、隙明申次第、御仕置城御普請ニ、取掛り可申候事、

   今度、青国、赤国致発向郡々之事、委細絵図ニ書付、致進上候事、

   御仕置城々、各致惣談、相定申候、就は小西摂津守城之儀、宛前は、しろ国(慶尚道)之内と、被成御諚候へ共、赤国順天郡内、所柄見合候得而、取出可申候事、

   釜山浦之儀、宛前は羽柴左近(宗茂)可致在城之旨、雖被仰出候、日本よりの渡口ニ御座候得は、御注進をも被申上、又御下知をも、先手へ差計被申觸候ために、毛利壱岐守在城被仕、可然と申儀ニ御座候事、

   羽柴左近事、慥成仁ニ而御座候、併其身若候間、島津・鍋島城之間、一城取拵、被致在番候へと申儀ニ候、此等之旨、宜預御披露候、恐惶謹言、

九月十六日
備前中納言秀家
蜂須賀阿波守家政
小西摂津守行長
薩摩侍従義弘
土佐侍従元親
吉川侍従広家
生駒讃岐守一正
鍋島加賀守直茂
島津又八郎忠恒
長曾我部右衛門大輔
池田伊予守
中川修理大夫
熊谷内蔵允直盛
早川主馬首
垣見和泉守一直
徳善院
増田右衛門尉殿
石田治部少輔殿
長束大蔵大輔殿
(征韓録)
大日本古文書・島津家文書之二(九八八)同文

ブログ主tokugawa訳文
      つつしんで申し上げます。

      さきに全州で(太閤様の)御使者に申し上げましたとおり、忠清道に進攻して、道内の過半に進撃、これから全羅道内で未だに残っている諸郡について、諸将の担当を決めて、進撃している途中です。この任務が完了次第、仕置の城(倭城)の築城工事にとりかかります。

   このたび、忠清道、全羅道の進撃した諸郡について、詳細を絵図に書きしるし、提出します。

   仕置の城々の予定地について、諸将で相談して、決定しました。小西行長在番の城について、以前は慶尚道内と決まっていましたが、全羅道の順天郡内へ、張り出して築くことにしました。

   釜山について、以前は立花宗茂が在城すると言っていましたが、日本からの渡海口なので、報告の上申や、御命令の前線諸軍への伝達をしなければならないため、毛利勝信が在城するほうがよいだろうということになりました。

   立花宗茂は、立派な人物ではありますが、まだ若いため、島津の城(泗川)と鍋島の城(昌原)の間(固城)に一つ城を築き、在番しようということです。これらの事柄について、(太閤様に)披露していただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

(慶長2年)九月十六日
宇喜多秀家
蜂須賀家政
小西行長
島津義弘
長宗我部元親
吉川広家
生駒一正
鍋島直茂
島津忠恒
長宗我部盛親
池田秀雄
中川秀成
熊谷直盛
早川長政
垣見一直
前田玄以殿
増田長盛殿
石田三成殿
長束正家殿



この井邑軍議の書状には、以前は慶尚道内と決定されていた倭城群の構築予定地の範囲を全羅道の順天まで拡大することが記されている。他にも立花宗茂在番の城についても言及されている。

鳴梁海戦は慶長2年の9月16日で、この書状の日付も9月16日である。鳴梁海峡と井邑は直線距離で120km以上離れた場所であり、この時代の情報通信能力で当日中に鳴梁海戦の情報が伝わることは絶対に有り得ない。朝鮮南岸の地に倭城群の構築することは、鳴梁海戦の結果を待つことなく、既に決まっていたことである。 「鳴梁海戦で朝鮮水軍が勝利し、敗北した日本軍は水陸ともに後退し、倭城を築いて籠城せざるをえなくなった。」などという主張が存在するが、このような主張が虚構であることには、多くの証拠があり、これまでも説明してきた。この9月16日付の陸軍諸将連署状も、それを証明する史料の一つである。


 ※一般にこの井邑で行われた軍議は“井邑会議”と呼ばれることが多い、また他にも文禄・慶長の役中に行われた軍議についても“会議”が使われることは多い。これが間違いというわけではない。しかし、“会議”では戦争の真っ只中に最前線で武将達が行うものとしては緊張感が伝わらない。よって当ブログではより適正な用語として“軍議”を使うこととする。





2014年8月15日金曜日

鳴梁海戦,日本水軍戦勝認定書『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』及び『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』

5月29日に投稿した日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 は先にも述べたとおり鳴梁海戦を知る上で最も重要な一次史料である。この史料に対する返書として豊臣秀吉が発行した朱印状と、石田三成等の奉行衆が発行した連署状が『久留島家文書』の中に存在する。この二通の書状も極めて重要な一次史料であるが、やはり隠されてしまうのか文禄・慶長の役関係の書籍でほとんど見ることはない。そこでこの場で紹介することにする。(読みやすいように句読点を付けた)


『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』


九月十八日之書状、被加披見候。番船少々、赤国之内、水栄浦ニ有之處、即時追散之由、被聞召届候。就其来嶋出雲事、手負相果候旨、不便ニ被思召候。息右衛門一(康親)事、可罷越旨申候間、則被遣候。猶増田右衛門尉・石田治部少輔・長束大蔵大輔、可申候也。

(慶長二年)十月十五日 ○(秀吉朱印)
毛利民部大輔とのへ
脇坂中務少輔とのへ
加藤 左馬助とのへ
菅 平右衛門とのへ
藤堂 佐渡守とのへ
 発行者:豊臣秀吉
 宛先:毛利高政・脇坂安治・加藤嘉明・菅達長・藤堂高虎(朝鮮在陣中の船手衆)



『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』

今度番舟重而有之所へ被押懸、即時ニ被追散由候。然処来嶋出雲方、蒙矢手被相果由、御注進之通、令披露候処、不便ニ被思召旨ニ候。則如被申越、子息右衛門一郎被差遣候。勿論跡目無异儀被仰付候。舎弟彦右衛門、家中之者以下、堅被申付通達 上聞候。弥きもをいるへき旨を、具以 御朱印被 仰出候。恐々謹言。
 
(慶長二年)十月十七日
増右
長盛(花押)
長大
正家(花押)
石治
三成(花押)
徳善
玄以(花押)
毛利民部大輔殿
藤堂 佐渡守殿
加藤 左馬助殿
脇坂中務少輔殿
菅 平右衛門殿
御宿所
 発行者:増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以(豊臣政権奉行衆)
 宛先:毛利高政・藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治・菅達長(朝鮮在陣中の船手衆)

 

 
二つの書状の要旨をまとめると
  1. 全羅右水営において日本水軍が朝鮮水軍を攻撃し、これを追い散らしたことを豊臣秀吉や奉行衆が認定したこと
  2. 来島通総の戦死を豊臣秀吉が不憫に思い、息子の右衛門一(康親)に来島家を相続させ戦地に派遣すること

1.について
 ここで注目すべきは、日本水軍が朝鮮水軍を追い散らした事実があり、それを豊臣秀吉や奉行衆という豊臣政権中枢が認定していることだ。すなわち、この二通の書状は実質的に鳴梁海戦における日本水軍戦勝認定書である。「鳴梁海戦で朝鮮水軍が日本水軍を撃退した」、「鳴梁海戦で朝鮮水軍が制海権を握った」、「日本軍の補給を断った」などといった言説が虚構であることはこれまで何度も証明しているが、ここでもこれら言説が一次史料に合致しないことが再認識される。

2.について
 来島通総の息子右衛門一(康親)は、父が戦死したとき大坂か伏見に居たと思われる。父の戦死後、秀吉に召し出され、来島水軍の統率者として朝鮮に派遣されることとなる。右衛門一はこのとき十六歳。
 右衛門一が到着までの間、前線の来島水軍を統率したのは通総舎弟の彦右衛門(村上通清)のようだ。鳴梁海戦後、全羅道西海に進撃した日本水軍の捕虜となった姜沆は『看羊録』に「通総が全羅右水営で戦死した時、弟が代わってその城に居ることになった」と記している。



おわりに
 それにしても、以前紹介の日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 や、今回紹介した『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』、『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』は鳴梁海戦の真実を知る上で欠くことができない第一級の一次史料である。しかしながら今まで多くの文禄・慶長の役関連の書籍・論文の類が発表され、鳴梁海戦についても解説されているが、その中にこれら重要記録を反映させたものが一体どれだけ存在するのだろうか?
 今後、鳴梁海戦を解説しているにも係わらず、こうした重要記録の内容を無視したものがあるならば、それは価値のないものだと見做すべきであろう。

2014年7月18日金曜日

鳴梁海戦,安衛vs毛利高政+藤堂孫八郎・藤堂勘解由

 鳴梁海戦の中で、朝鮮水軍の安衛(巨済県令)と、日本水軍の毛利高政(船手衆目付)+藤堂孫八郎藤堂勘解由(ともに藤堂高虎家臣)の間で接舷切込み戦が起こっている。これについて、5月29日の投稿、鳴梁海戦,日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 で少し触れていたが、詳しく説明していなかったので、ここで詳しく触れて行きたい。

 まず鳴梁海戦接舷切込み戦に関する日本側記録を抜粋する。

『九月十八日付船手衆注進状』より
毛利民部太輔のり舟壱艘、幷藤堂佐渡守家中の舟壱艘、番舟の大船へ相付申候、然処ニ民部太輔則切乗、やゝ久相戦申、自身貳ケ所手負、其上海上ヘ被打落候、右之仕合誠無比類手からにて御座候、則民部太輔事者、藤堂佐渡右之付申候舟へ乗移、異儀無御座候、幷民部太輔のり舟も無異儀引取申候事
 <ブログ主tokugawa訳>
毛利高政の船1艘と、藤堂家中の船1艘が、朝鮮水軍の大船に横付けしました。毛利高政は敵船に乗り移って、しばらくの間交戦し、2ヶ所負傷した上、海上に落下しました。この(激闘の)様子は比類なき手柄でございます。毛利高政の身は藤堂家中の船に乗り移って無事でした。また毛利高政の乗っていた船も無事です。


『高山公実録』より
[黙記]
毛利民部大夫殿せき舟にて、はんふねへ御かゝり成候。はん船へ十文字のかまを御かけ候処に、はん船より弓鉄砲はけしくうち申候に付、船をはなれ海へ御はいりなされ、あやうく候処に、藤堂孫八郎藤堂勘解由両人船をよせ、敵船をおいのけ、たすけ申候。
  <ブログ主tokugawa訳>
毛利高政が関船に乗り、朝鮮軍船に攻めかかり、朝鮮軍船へ十文字の鎌を掛けたところ、朝鮮軍船から弓・鉄砲で激しく射撃してきたため、船を離れ海に入水、危いところで、藤堂孫八郎藤堂勘解由の二人が船を寄せ、敵船を追い退け、救助した。

勘解由家乗]
慶長二丁酉年、高麗後御陣の節御供仕、高麗番船の内へ一番に乗付、打かきを以て大船へ乗り、烈き働仕候由、右働の様子、太閤様御旗本御横目毛利民部大輔殿目前にて御働候故、御見届、高山様へ御直に委細被仰達、依之為御褒美、御名字拝領仕候。
  <ブログ主tokugawa訳>
 慶長2丁酉年、(長井勘解由は)慶長の役で(藤堂高虎の)お供をし、朝鮮水軍の中に一番に乗り付け、打ち鉤をもって大船に乗り移り、烈しく戦った。この戦いの様子は、太閤様の旗本で目付の毛利高政殿の目前での戦闘だったため、これを見届けられ、藤堂高虎様へ直接詳細にわたって伝えられた。これにより褒美として、(藤堂の)名字を拝領することとなった。

鳴梁海戦で日本水軍が用いた関船(中型高速船)
朝鮮水軍の主力となった板屋船(日本の安宅船に相当する大型船)

 次に朝鮮側記録から抜粋

『乱中日記草・丁酉日記』(乱中日記・原本)より
安衛荒忙直入交鋒之際、賊将船及他賊二船、蟻附干安衛船、安衛格卒七八名、投水遊泳、幾不能救、余回船直入安衛船、安衛船上之人、殊死乱撃、余所騎船上軍官之輩、如雨乱撃、賊船二隻、無遺尽勦
 <ブログ主tokugawa訳>
安衛が慌てて突入し交戦しようとしたとき、日本武将の船及び他の日本船2隻で、安衛の船に群がり付いてきた。安衛の格卒7・8名が海に落ちて泳いでいたが、ほとんど救うことはできなかった。自分(李舜臣)も船を回して安衛船のところに突入した。安衛の船上の人々は必死に乱撃し、自分が乗る船の軍官らも、雨の如く乱撃、日本船2隻を、残らず殺しつくした。

『乱中日記草・続丁酉日記』(乱中日記・加筆修正版)より
賊将所騎船、指其麾下船二隻、一時蟻附安衛船、攀縁争登、安衛及船上之人、各人死力、或持稜杖、或握長槍、或水磨石塊、無数乱撃、船上之人、幾至力尽、吾船回頭直入、如雨乱撃、三船之賊、幾尽顚仆、鹿島万戸宋汝悰・平山浦代将丁応斗船継至、合力射殺、無一賊動身
 <ブログ主tokugawa訳>
日本武将の乗る船がその麾下の船2隻に指図すると、安衛の船に一斉に貼り付いて、船の縁を争ってよじ登ってきた。安衛とその船上の人々は、各々死力をつくし、あるいは稜杖を持ち、あるいは長槍を握り、あるいは石弾を無数乱撃、船上の人々は、ほとんど力尽きるまでになっていた。自分(李舜臣)の船が回頭して突入し、雨の如く乱撃すると、3船の敵はほとんど倒れつくした。鹿島万戸・宋汝悰と平山浦代将・丁応斗の船も続いてやってきて、共に射殺すると、身を動かす敵は一人もいなくなった

 『李忠武公全書巻之八・乱中日記』(乱中日記・後世編纂版)より
賊將指揮其麾下船三隻。一時蟻附安衛船。攀緣爭登。安衛及船上之人。殊死亂擊。幾至力盡。余回船直入。如雨亂射。賊船三隻。無遺盡勦。
  <ブログ主tokugawa訳>
日本武将がその麾下の船3隻に指図すると、安衛の船に一斉に貼り付いて、船の縁を争ってよじ登ってきた。安衛とその船上の人々は、必死に乱撃し、ほとんど力尽きるまでになっていた。自分(李舜臣)も船を回して突入し、雨の如く乱射、日本船3隻を、残らず殺しつくした。

以上、抜粋終わり


 これら立場の異なるそれぞれの記録は各々の功績を強調する傾向が強く、誇張があるにせよ、大筋において矛盾なく調和的である。このことから同一の出来事を記録しているとみて間違いなく、対戦したのは朝鮮側が安衛で、日本側が毛利高政(友重)+藤堂(今井)孫八郎(忠重藤堂(長井)勘解由(氏勝)となる。

 これら記録を総合的に判断すると、この安衛vs毛利高政+藤堂孫八郎藤堂勘解由の接舷切込み戦は日本水軍側苦戦に終わったとみるべきだろう。しかし、これは戦術レベルの出来事でしかなく、結局のところ鳴梁海戦で後退したのは朝鮮水軍であり、日本水軍は前進を続け、戦略目的である全羅道西岸域の掃討任務を達成している。(→鳴梁海戦,朝鮮水軍の後退と日本水軍の前進

 戦術レベルの優勢を得ることに成功した朝鮮水軍であるが、それは戦術レベルを超えるものではなく、戦略レベルにおいては日本水軍の進攻を阻むことはできなかった。朝鮮水軍は先の漆川梁海戦でほとんど壊滅しており、鳴梁海戦時わずかに13隻しか戦力がなかった。一方の日本水軍はこの海戦で投入したのは関船部隊のみで主力の安宅船は温存されていた。関船部隊にいくらかの打撃を与えたところで、日本水軍の優勢状況が覆ることはなかったといえる。

 藤堂水軍の捕虜となった朝鮮官僚姜沆が著した『看羊録』で、鳴梁海戦後の9月24日に全羅道西岸の務安で1000隻の日本船が充満していたとある。鳴梁海戦後も日本水軍が十分な戦力を保持していた証拠となろう。

2014年6月30日月曜日

鳴梁海戦,朝鮮水軍の後退と日本水軍の前進

「鳴梁海戦で朝鮮水軍が日本水軍を撃退した」、「鳴梁海戦で朝鮮水軍が制海権を握った」、「日本軍の補給を断った」などといった言説が虚構であることが視覚的に理解しやすいように地図で表してみた。




鳴梁海戦で退いたのは朝鮮水軍であって、日本水軍は前進を続け全羅道の海上を掃討している実態が明らかであろう。

慶長の役における日本軍の主要戦略目標は全羅道の成敗であり(慶長二年二月二十一日付朱印状』)、この内日本水軍が担当した目標は咸平務安であった(朝鮮国全羅道ニ而之書物八ツ『鍋島家文書133号』)。務安は勿論のこと咸平を超えて霊光にまで進出していることが複数の史料によって確認できる。日本水軍は十二分に目標を達成しているといえる。結局のところ李舜臣の朝鮮水軍はこうした日本水軍の侵攻を防ぐことができず、全羅道北端まで後退し、ただ指をくわえていているだけであった。これが鳴梁海戦の実態である。

同時期に日本の陸軍部隊も全羅道を北から南へと掃討を続けており、水軍と合わせて全羅道を水陸共にことごとく成敗し、慶長の役の戦略目標を完全に達成している。全羅道成敗達成後の次なる目標は沿岸部の倭城群の構築である。このため水陸の日本軍は築城予定地に移動して築城を開始することになる。

ここで注意しなくてはならないのは「慶長の役の戦略目標が朝鮮の南四道の領土的確保である」という誤った言説である。実際は慶長の役開始時点から進出先に留まって領土的確保をする意図はなくヒット・アンド・アウェイの要領で進攻して打撃を与えた後、沿岸部に引き上げて倭城群を構築することが決まっていたのである。(詳細は→“真相”文禄・慶長の役,慶長の役戦略

鳴梁海戦関係で当ブログ内で参照していただきたい記事
鳴梁海戦,日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』
『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)

管理人HP“真相”文禄・慶長の役内で参照していただきたい記事
慶長の役戦略
全羅道・忠清道掃討


2014年5月29日木曜日

鳴梁海戦,日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』

毛利高棟文書』内に収録されている『九月十八日付船手衆注進状』は鳴梁海戦に参加した当事者たちによる戦闘報告書であり、鳴梁海戦の真相を知る上で最重要な史料である。しかしながら、何故かこの史料は無視され続けている。広く世に告知する必要があると思いここに原文と意訳を記す。 


『九月十八日付船手衆注進状』原文
謹而奉致言上候、先書如申上候、於全州各致相談候て、全羅之川口江罷出候事

一 風時分ニ御座候付而、此度者大船共ハ彼川口ニ残し置、小関舟斗にて去十日ニ打立、赤国浦〻嶋〻過半発向仕候事

一 たいたんむろのむかひ水営と申城の瀬戸口ニ番舟・大船拾四艘、其外小舟数百艘かゝり居申候条、即十六日押懸申候而、卯刻より申刻迄相戦申候事

一 毛利民部太輔のり舟壱艘、幷藤堂佐渡守家中の舟壱艘、番舟の大船へ相付申候、然処ニ民部太輔則切乗、やゝ久相戦申、自身貳ケ所手負、其上海上ヘ被打落候、右之仕合誠無比類手からにて御座候、則民部太輔事者、藤堂佐渡右之付申候舟へ乗移、異儀無御座候、幷民部太輔のり舟も無異儀引取申候事

一 申刻迄相戦、則見合を以悉可討果与存候刻、大風吹出、番船依為案内者、遠嶋帆に任逃退申候、則六七里斗追懸雖申候、暮に及、其上嶋〻無案内ニ付而、番舟の小舟共数艘やきわり申候事

一 右戦候翌日、彼番舟の有所早舟を以方〻浦〻雖相尋申候、近辺ニ相見不申候、尚従是先手羅州の川口へおし廻し、近郡発向仕、追〻可致言上候、此等之趣、宜預御披露候、恐〻謹言、

九月一八日
藤堂佐渡守
脇坂中務少輔
菅平右衛門
藤堂宮内少輔
菅三郎兵衛
菅右衛門八
加藤左馬助

増田右衛門尉殿
石田治部少輔殿
長束太蔵太輔殿
徳善院


『九月十八日付船手衆注進状』意訳
 つつしんで申し上げます。先の書状で申上げましたとおり、全州にて相談し、全羅道の川口に進撃したことについて。
  • 風が強い時期なので、このたび大船は彼の川口(おそらく蟾津江河口)に残し置き、小さな関船(高速軍船)ばかりで去る10日に出撃し、全羅道の浦々島々の多くに向いました。
  • タイタンムロ(不明、珍島内の地名?)の向かいにある水営という城(全羅右水営)の瀬戸口(鳴梁)に朝鮮水軍の大船14艘と小船数百艘が泊まっていたので、16日に攻撃し、卯刻6時ごろ)から申刻16時ごろ)まで戦いました。
  • 毛利高政の船1艘と、藤堂家中の船藤堂孫八郎・藤堂勘解由、乗船『高山公実録』)1艘が、朝鮮水軍の大船(おそらく『乱中日記』の記述から巨済県令・安衛の乗船)に横付けしました。毛利高政は敵船に乗り移って、しばらくの間交戦し、2ヶ所負傷した上、海上に落下しました。この(激闘の)様子は比類なき手柄でございます。毛利高政の身は藤堂家中の船に乗り移って無事でした。また毛利高政の乗っていた船も無事に引き取りました。
  • 申刻16時ごろ)まで戦い、対峙状態からいよいよ敵を撃滅しようとしたとき、強風が吹きだし、地理に詳しい朝鮮水軍は、帆を掛けて遠くの島に逃げ退いてゆきました。これを67(24~28km)にわたって追撃しましたが、日暮となり、その上に現場の島々の地理に詳しくないため、朝鮮水軍の小船数艘を焼破したところで戦闘を終結しました。
  • この戦闘(鳴梁海戦)の翌日(17日)、朝鮮水軍の居場所を求めて高速船で方々を偵察したところ、近辺にいないことが判りました。なお、これから先にある羅州の川口(栄山江河口=務安郡・木浦付近)に回航し、近辺諸郡の制圧に向います。これについて追って報告します。これらの事項について、(太閤殿下に)御披露していただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
(慶長二年)九月一八日
藤堂高虎
脇坂安治
菅達長
藤堂高吉(高虎養子)
菅三郎兵衛(達長長男)
菅右衛門八(達長三男)
加藤嘉明
増田長盛殿
石田三成殿
長束正家殿
前田玄以殿

この史料は鳴梁海戦で「朝鮮水軍が逃げ退いた」と書かれており、ちまたにある「李舜臣がわずか戦力で倭水軍を撃退した。」「朝鮮水軍が再び制海権を握った。」「日本側の補給を遮断した。」などといった言説には都合の悪いものであろう。

鳴梁海戦で後退したのが李舜臣の朝鮮水軍であることは、当の李舜臣が書き残した『乱中日記』でも海戦当日である916日の戦闘記述の後、「移陣唐笥島」と記述されており明確に確認できる。“唐笥島(新安郡岩泰面唐沙島)”とは戦場となった鳴梁海峡から37km後方にあり、日本水軍による6・7里(24~28km)追撃を逃れて停泊する位置として妥当であり、この『九月十八日付船手諸衆注進状』の追撃記述の信憑性を裏付けている。 

ほかにも、姜沆『看羊録』でも「水路倭千餘艘已到右水營。統制使以衆寡不敵。遵海西上。」と、数的劣勢な朝鮮水軍が拠点である全羅右水営を放棄して後退した実態が記されている。このように朝鮮水軍が鳴梁海戦後に後退したことは立場の異なる複数の記録によって確認できる疑いようのない事実である。

 その後も李舜臣と朝鮮水軍の後退に次ぐ後退の様子は『乱中日記』の記事で、17日、於外島(新安郡智島邑於義島)。19日、七山海(霊光郡落月面七山島)→法聖浦(霊光郡)。→弘農(霊光郡)前洋。20日、蝟島(扶安郡蝟島面蝟島)。21日、古羣山島(群山市沃島面仙遊島)。と全羅道の北端まで大きく後退している。そして全羅道の西海には日本水軍が進出する。
この『九月十八日付船手諸衆注進状』には、今後前進して栄山江河口(=務安郡・木浦付近)に向かう予定が述べられている。そしてこのとおりに前進し、さらには霊光沖にまで進出したことは、姜沆が23日に霊光沖で藤堂水軍によって捕虜となり、務安で膨大な数の日本船の群れを目撃していることや、『朝鮮王朝実録・宣祖実録』宣祖301013(庚午) 「則賊船或三四隻, 或八九隻, 入靈光以下諸島, 殺擄極慘, 靈光地有避亂船七隻, 無遺陷沒。」でも確認することができる。全羅道の西海に進出して制海権を獲得したのは日本水軍なのだ。

このとき、日本水軍による掃討作戦を李舜臣の朝鮮水軍は全く妨害することさえ出来なかった。「李舜臣がわずかな戦力で倭水軍を撃退した。」「朝鮮水軍が再び制海権を握った。」「日本側の補給を遮断した。」などといった言説が成り立つ余地はない。もし朝鮮水軍制海権を握ったなら捕虜となった膨大な数の朝鮮人たちが何の妨害も受けず日本まで海路移送さることなどあり得ない。

 ※8/15追記
この『九月十八日付船手衆注進状』に対する豊臣秀吉と奉行衆による返書を公開したので、ぜひとも御一読を。
鳴梁海戦,日本水軍戦勝認定書『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』及び『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』