2011年10月4日火曜日

『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠

慶長の役で李舜臣率いる朝鮮水軍が鳴梁海戦で日本水軍を撃退し、全羅道西岸への進出を阻止したなどという主張がしばしば見られる。しかし、これが事実ではないことは以前からyasoshima氏が明らかにしていた。
結局のところ朝鮮水軍は海戦直後から後退を繰り返し、全羅道最北端の古群山島まで退却していることが『乱中日記』から確認できる。一方、日本水軍は鳴梁海峡を突破して全羅道西岸域に進出していることは『看羊録』や『月峯海上録』から確認できるのである。 この点について私tokugawaも朝鮮王朝の正史である『宣祖実録』を読んでyasoshima氏の説を補足することになる以下の記事を確認した。
賊船或三四隻, 或八九隻, 靈光以下諸島, 殺擄極慘, 靈光地有避亂船七隻, 無遺陷沒。

(訳)
日本軍の船が、3・4隻、或いは8・9隻の単位で霊光以南の諸島に入って(朝鮮人を)殺し捕え極めて惨い。また霊光にあった避乱船7隻も跡形もなく陥没した。
この『宣祖実録』の記事は霊光沖で日本水軍の捕虜となった朝鮮人が記した、姜沆『看羊録』や、鄭希得『月峯海上録』の記録と合致しており極めて信憑性が高い。日本水軍は鳴梁海峡を突破して少なくとも霊光沖まで進出していたことは確実といえる。


豊臣秀吉は慶長の役開始時に「赤国不残悉一篇ニ成敗申付(全羅道を、残さず、ことごとく、いっぺんに、成敗せよ)『2月21日付朱印状(立花文書他)』」と命じていたが、これは本土ばかりではなく、多島海と言われる全羅道西岸の島々に対しても行われていたことになる。まさに「赤国不残悉一篇ニ成敗」していたのだ。李舜臣以下の朝鮮水軍はこれを阻止できなかった。

鳴梁海戦について、韓国国定教科書の記述では「このとき李舜臣は倭軍を嶋梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。」とあるが、事実は全く違っている。鳴梁海戦後、後退したのは朝鮮水軍であり、前進したのが日本水軍なのだ。もちろん朝鮮水軍が制海権を握ることはなかったし、日本軍の補給を断つこともなかった(参照;李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編))。

日本水軍は全羅道西岸域を掃討した後、ここから引き上げ築城を開始するが、これは前記『2月21日付朱印状(立花文書他)』に「右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。」とあるように、全羅道成敗が完結したので、予定通り築城を行うため築城予定地に移動したのであり、これは慶長の役開始時からの方針であるヒット・アンド・アウェイ戦略に沿ったものである。

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2011年9月17日土曜日

別個の出来事である“順天城の戦い”と“帰国妨害の海上封鎖”を一連化する歴史捏造行為

慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて戦われた順天城の戦いと、一か月後に行われた順天城の日本軍に対する帰国妨害のための海上封鎖を連続した一つの出来事として語られることがある。一例をあげると韓国・慶尚南道のサイト<忠武公李舜臣> - 壬辰倭乱 - 壬辰倭乱経過 - 朝・明連合軍の反撃と終戦というページ。こうした韓国発情報の影響か、日本でも「9月19日、明・朝鮮軍によって水陸から順天城が包囲され、小西行長らは脱出不能に陥った。これを救出するため出動した島津義弘らの水軍と明・朝鮮水軍の間に11月18日露梁海戦が戦われ、翌日小西行長らは脱出することができた。」などといった具合に語られることがある。これだと2か月の間継続して順天城が包囲されていたことになるが、こんなことは全く事実に反する。

実際の経緯を述べると。水陸の明・朝鮮水軍が、小西行長らが籠城する順天倭城の攻略を目指した順天城の戦いは、慶長3年(1598年)9月19日に始まった。しかし、結局城の攻略に失敗し、10月7日に明・朝鮮陸軍が退却したのに続き、9日には明・朝鮮水軍も退却して水軍本営の古今島に帰還した。これにより城の包囲は解かれ、順天城の戦いは明・朝鮮側の敗退という形で終結した。その後一月近くの間をおいて、明・朝鮮水軍は豊臣秀吉死去に伴う日本軍帰国の情報を得、11月7日に水軍本営の古今島を出発し11月10日に順天沖の光陽湾を海上封鎖して小西行長らの帰国を妨害した。これを救出するため出動した島津義弘らの水軍と明・朝鮮水軍の間に11月18日露梁海戦が戦われ、翌日小西行長らは脱出することができた。

これらの経緯は李舜臣の著した『乱中日記』や朝鮮王朝編纂の『宣祖実録』で明確であり、本来なら議論の余地もないことである。ところが、この明・朝鮮水軍の一連の行動の内、城の攻略に失敗して帰還し、後で再度出航して海上封鎖した過程が消去された上、前後をくっ付けて語られる事態がしばしば見られるのだ。これにより、帰国を図る日本軍が2か月の間順天城に包囲され攻撃を受ける中で脱出したように捏造されている。

もう一つ注意しなければならないのは、順天城の戦いの時点での日本軍の状況は城の在番体制を固め翌年の攻勢準備を進めていたのであり、帰国を図ってはいない。豊臣秀吉は8月18日に死去しているが、当時は情報が瞬時に伝わる時代ではなく、帰国方針が現地に伝えられるのは順天城の戦いで明・朝鮮軍を撃退し包囲が解かれた後、10月に入ってからのことである(詳細は、三路の戦い #追撃ではない明・朝鮮軍による三倭城攻略作戦を参照のこと)。ところが、順天城の戦いの時点で既に日本軍が帰国を図っていたような主張がしばしば見受けられる。

先ほど例示した韓国サイトの<忠武公李舜臣> - 海戦 - 海戦戦闘 - 9次出戦ページでは出戦の次数そのものが捏造されている。ここでは順天城の戦いを無かったことにして、いきなり露梁海戦に飛び、これを9次出戦としている。しかし、実際は順天城の戦いが9次出戦であり、露梁海戦は10次出戦である。

なぜ、このような歴史捏造行為が行われるのか? それには二つの要素が大きく作用している。

一つ目の要素は、朝鮮が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に勝利したという虚構を仕立て上げるためには、戦争の最終段階まで日本軍が勝利し、朝鮮軍や明軍が敗北を重ねているという事実が極めて不都合になるため、これを隠さなければならないという事情である。慶長2年末から慶長3年始めにかけて戦われた蔚山城の戦い(第一次)で明・朝鮮軍は大敗を喫し、同年9月末から10月初めにかけて戦われた三路の戦いでも蔚山・泗川・順天、全て敗北している。このように明・朝鮮軍は戦争の最後まで連戦連敗であり、「而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録10月12日条』」という状況に陥っている。つまり朝鮮が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に勝利したという戦争結果を成立させる余地は存在しないのである。しかし、現在の韓国でこうした状況は隠されるか歪曲されるなどして真実が語られることは少ない。また日本の研究者やメディアの中にも韓国の状況に同調するような者が存在し、これが事態を悪化させている。

二つ目の要素は、李舜臣が「23戦23勝」「無敗の名将」という神話を作り上げるためには、李舜臣が順天城攻略戦に敗退したという事実を隠さなければならないという事情である。実のところ李舜臣は、この順天城の戦いを含め、日本軍の陸上拠点に対する攻撃は殆ど不成功に終わっている。これに関しても現在の韓国でこうした事実は隠されるか歪曲されることが多いし、やはり日本の研究者やメディアの中に韓国の状況に同調するような者が存在して事態を悪化させている。
これらの二つの隠さなければならない要素が重なることにより、順天城の戦いと、一か月後に行われた順天城の日本軍に対する帰国妨害のための海上封鎖を連続した一つの出来事とする歴史捏造行為が行われるのである。このような行為はあってはならないことだ。

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“真相” 文禄・慶長の役

2011年9月12日月曜日

Wikipediaに『海汀倉の戦い』を立てる

海汀倉の戦い - Wikipediaを新規に立てた。

2011年9月10日土曜日

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)

慶長の役でも李舜臣が日本軍の補給路を寸断したという言説があるが事実ではない。
慶長の役では、漆川梁海戦で元均麾下の朝鮮水軍が壊滅的打撃を被った後、李舜臣が三道水軍統制使に復帰し、朝鮮水軍の指揮をとるが、以後一度も釜山近郊に現れていない。鳴梁海戦の後も李舜臣が根拠地としていた場所は全羅道西方の古今島であり、ここから長躯釜山に進出することは当時の朝鮮水軍の造船技術や航海技術では不可能なことだった。

この時代の朝鮮の軍船は(日本も同様であるが)櫓走を主として航行するため、多数の漕ぎ手が乗船しており、必ず休息と睡眠をとるために毎日停泊しなくてはならなかった。また、乗員が多いことは食糧や飲料水の消費量を増大させるが、反比例して荷の搭載スぺース少なくなる。このため艦隊は補給を受けるためにも停泊する拠点を必要とした。ところが、釜山から順天のおよそ140kmに及ぶ沿岸は日本軍の制圧下にあり、朝鮮水軍が釜山に到達することは不可能で、実際に李舜臣は一度も釜山の前洋に達していない。よって、李舜臣が日本軍の補給路を寸断することなど有り得ないことなのである。

しかし、実は朝鮮水軍が一度だけ釜山の前洋で日本軍の補給線を妨害したことがあった。それは時間を溯って慶長の役初頭の元均が三道水軍統制使だったときのことだ。このときは、文禄の役後の講和交渉の進捗で日本軍が巨済島から撤収していた影響で、慶長の役開始当初、朝鮮水軍は巨済島を停泊地にして釜山前洋に進出することが可能であった。しかし効果を挙げる間もなく元均麾下の朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍の逆襲を受け壊滅的打撃を被り、補給線妨害作戦はここに終決することになった。
この経緯は日本側記録でも確認できる。

番船唐島(巨済島)を居所に仕、日々罷出、日本通船、渡海一切不罷成ニ付而、五人之者申合、唐島へ押寄、昨日十五日夜半より、明末之刻迄相戦、番船百六拾餘艘切取其外津々浦々、十五六里の間、舟共不残焼棄申、唐人数千人海へ追いはめ、切捨申候、・・・
七月十六日付、四奉行(前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)宛、小西行長、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、島津義弘・忠豊、連署状『征韓録』

 
この慶長の役初頭の極短期間以を除き、その後日本軍の海上補給線が妨害されたことは一度も無い。

慶長3年3月13日に豊臣秀吉が朝鮮在番の諸将に発した書状に、「兵糧を日本の都へ届けるよりも、その方(朝鮮)に届けるほうが容易である」とする。
兵糧之儀ハ、日本之都へ相届候よりも、其方へは輙候・・・
  三月一三日付、立花宗茂宛、豊臣秀吉朱印状
(他に類似の、同日付、朝鮮在番諸将宛、豊臣秀吉朱印状が複数あり)
日本軍の海上補給線が妨害されていないことが確認できる記録である。文禄の役と同様に、慶長の役でも李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという言説が成り立つ余地はない。

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“真相” 文禄・慶長の役

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)

文禄の役で「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という言説が存在する(一例;日韓歴史共同研究報告書(第1期)・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」。しかし、そのような事実は存在しない。

日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐を経て対馬厳原に到り、対馬北端に位置する大浦などから釜山に着岸して荷を下ろし、その後は陸上を漢城に向かうというものだ。この補給路を朝鮮水軍が寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのものを占領奪還するしか方法はない。

しかし実際のところ李舜臣が釜山の海上封鎖を行ったことはない。それどころか釜山前洋に現れること自体殆ど無かった。閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり釜山には触れてもいなかった。たった一度だけ釜山に現れたのが文禄元年8月29日(明暦9月1日)の釜山浦の戦い(釜山浦海戦)である。そして、この戦いで李舜臣は釜山の占領奪還を狙ったが失敗し日本軍補給路を寸断することはなく退却した(詳細はtokugawaブログ: 釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討するを参照のこと)。たった一日の数時間の出来事でしかなく、このような継続性のないことでは日本軍の補給を滞らせることはできない。この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることは二度と無かった。つまり結局李舜臣が日本軍の補給路を寸断したことは無かったということだ。

実際、漢城在陣諸将が文禄2年3月3日に発した連署状には、4月11日までは漢城に兵糧があると書いた後で
釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候・・・・・
『(文禄二年)三月三日付・漢城在陣諸将連署状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書100
釜山には兵糧があることが書かれている。輸送が困難なのは、その後の陸路に山や坂があることや、川(洛東江)を遡航して輸送するにも人数不足であることが書かれている。これを見て判るように海路釜山には兵糧が運ばれていたのだ。海上補給路は妨害されていなかったのだから、それは当然のことといえる。

文禄2年4月、日本軍は補給不全の漢城を引き払い、補給を受けることが出来る朝鮮南部に再布陣するが、これにより兵糧不足は解消された。もし兵糧不足の原因が李舜臣による海上活動によるものならば、内陸奥地にいようと、南部沿岸部にいようと、無関係に兵糧不足は生じていたはずである。

これについて、ルイス・フロイスの『日本史』にも記録されているので引用する。
遊撃との間で上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ P270
このように、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことは疑いようがなく、李舜臣が日本軍の補給線を寸断したなどという状況は存在しない。

南部への再布陣により、補給を充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢を開始し、29日、朝鮮側最大の反抗拠点と目された晋州城の攻略を成し遂げることができた。この晋州城攻略作戦は文禄の役が始まって以来最大の作戦であり、9万を超える軍勢が晋州城とその周辺に投入された。この大兵力を支える補給物資が集積されていたということだ。

晋州城の攻略後、ただちに日本軍は慶尚道南部の沿海部に多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。この時期についても、ルイス・フロイスの『日本史』に記録されているので引用する。
それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ P276
今日、倭城と呼ばれるこれらの城郭には、やはり兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達しているのだ。また、この晋州城攻略作戦から倭城群構築にかけての時期に、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と渡海しており、海上交通路が安全化されていたことは確かといえる。ここでも李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという状況は存在しない。

南部の倭城群に布陣する日本軍の補給物資が充足した状況は文禄3年以降も変わらない。文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状を見てみよう。
急度被仰出候、被越置候御城米之儀、彌古米ニ不成之様、手前兵糧ニ取替召遣、具数無相違、元程可積置候、釜山浦幷かとかい(加徳島)東莱・竹島等ニ有之分、莫大之儀候條、為御奉行、福島左衛門大夫・毛利民部大輔、被仰付候、手前御城米引加、惣人数多少ニ付令割符可積替候・・・
『(文禄三年)五月二十四日付・豊臣秀吉朱印状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第175
釜山・加徳島・東莱・竹島(金海)等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている。このように実際の状況は古米化を心配しなければならないほど兵糧は豊富であり、補給の断絶などとは全く逆の状況を示しているのだ。

結論として言えることは、文禄の役を通じて「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が虚構にすぎないことは明らかである。さらに「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が虚構にすぎないことは慶長の役においても同様である。これについては次の投稿・李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編) で説明する。

※2014年9月10日、ルイス・フロイスの『日本史』関連の記述を追記し、文章を再構成する。
※2014年9月17日、文禄3年以降の状況を追記。

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“真相” 文禄・慶長の役

2011年9月6日火曜日

釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討する

文禄元年(1592年)8月29日、李舜臣以下の朝鮮水軍が日本軍の支配下にある釜山を攻撃した。この「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」について、参謀本部編纂『日本戦史・朝鮮役』「釜山ノ戦」では朝鮮水軍の敗退として書かれている。ところが、現在の韓国ではこの戦いが朝鮮水軍の大勝利と全く逆の扱いを受けていることが多い。そこでこの戦いの勝敗について検討してみることにする。

勝敗を検討するにあたり、まず朝鮮水軍は何のために釜山を攻めたのか、その作戦目的を知る必要があるので、各種史料を見てみよう。
八月、李舜臣進攻釜山、鹿島萬戶鄭運死之、舜臣引兵還。舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而之、賊必據。」遂進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十三 附録五 宣廟中興志
李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之をせば、賊(日本軍)は必ず據(拠)をう。」と宣言して釜山攻撃を始めている。

日本軍の根拠地となっている釜山に進撃して、これを覆し、日本軍の拠り所を失陥させる。それが作戦目的という。別の言い方をすれば釜山の占領が朝鮮水軍の作戦目的ということだ。

よく似た内容が『宣廟中興志』以外にも書かれている。
公與李億祺、元均、助防將丁傑等相議曰、「釜山爲賊根本。蕩其穴、則賊膽可破。」遂與進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之九 附録一 『行録』
公與元均、李億祺、丁傑等計曰、「釜山、賊之喉也。進而扼之、賊必其據。」遂進逼釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『行状』
公進撃釜山、其根・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『神道碑』領議政金堉

確かに釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であり、もしここを朝鮮水軍が占領すれば、朝鮮にいる日本軍は補給連絡を絶たれて孤立し、日本に退却することも出来ずに全滅したであろう。

さて、この戦いが終結したとき釜山は覆っただろうか? 戦いが終決したとき日本軍は釜山を失っただろうか? いや、そんな状況には全くなっていない。つまり李舜臣は作戦目的の達成に失敗したということだ。この戦いが単に船を撃沈しに行ったのではなく、釜山の占領が目的だった証拠に、兵を上陸させて陸戦が戦われている。しかし全く歯が立たず敗退した。

釜山の奪還に失敗した李舜臣であるが、彼は報告の中で100余隻という膨大な数の日本船を破壊したと主張している。これだけの大戦果を挙げたのだから、たとえ作戦目的を達成していなくても朝鮮水軍の大勝利ではないかという意見も出てくるかもしれない。しかし、このような膨大な戦果を客観的に証明するものは何もない。もちろん日本側記録でも確認できるものではない。戦史研究の一般論として、このような自称大戦果を安易に受け入れることは健全なことではなく、真偽の検討を要することだ。

戦闘後、もし李舜臣が自身の保身を望むなら、作戦失敗、即ち敗北を覆い隠す必要がでてくる。そのためには膨大な戦果がどうしても必要となってくる。100余隻という自称大戦果はそうした背景で成された報告である。こうした要素を勘案すると、やはり100余隻破壊という大戦果をそのまま受け入れることはできない。

そして、100余隻だった大戦果は後に編纂された『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)では400余隻というさらに巨大な数値に膨れ上がっている。
李舜臣等攻釜山賊屯、不克。倭兵屢敗於水戰、聚據釜山、東萊、列艦守港。舜臣與元均悉舟師進攻、賊斂兵不戰、登高放丸。水兵不能下陸、乃燒空船四百餘艘而退。鹿島萬戶鄭運居前力戰、中丸死。舜臣痛惜之。
『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条
このことから『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)の編者の立場は李舜臣を持ち上げろうという意図で書かれていることが判る。しかし、そのような編者でも、釜山の奪還に失敗したという事実を根本的に覆い隠すことはできなかったようで、釜山浦の戦いを「不克(勝てなかった)」と評価せざるをえなかった。この「不克」というのは敗北の婉曲表現である。敗北という直接的表現を使うことは李舜臣を持ち上げろうという意図を持った編者には出来なかったのだろう。

敗北に懲りたのであろうか、この戦い以後、李舜臣が釜山を攻撃することは二度と無かった。それどころか、これまで連続的に出撃を繰り返してきた李舜臣以下の朝鮮水軍は活動をパッタリと停止する。李舜臣が日本軍の補給を断つようなことは無かった。これにより釜山は安全化され、文禄・慶長の役が終決するまで日本軍の補給連絡上の根本拠点として機能し続けることとなる。

以上、ここまで見てきたとおり「釜山浦の戦い」は朝鮮水軍が敗北した戦いであることは明白だ。韓国では李舜臣を民族的英雄として崇め奉り、「23戦23勝」、「無敗の名将」と称えているが、実際のところ、それは虚構である。しかも、それは何もこの「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」に限ったことではない。「順天城の戦い」では、より明白に敗退しているし、その他日本軍の沿岸拠点への攻撃では尽く不成功に終わっている。だが、残念なことに、こうした事実が韓国で語られることはおそらく殆ど無い。韓国における歴史の評価は民族的自尊心の充足が極めて大きな要素となっており、民族的英雄である李舜臣が敗北しているという事実を受け入れることは容易ではないかもしれない。しかし、歴史は真実から目を背けることを永久に続けるならば、それはあまりにも非文明的行為と言わざるを得ない。

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“真相” 文禄・慶長の役

2011年9月1日木曜日

Wikipediaに『釜山浦の戦い』を立てる

 

釜山浦の戦い - Wikipediaを新規に立てた。

この戦いは朝鮮王朝実録の『宣祖修正実録』でも「不克・・・(中略)・・・退(勝てずに退却した)」と書いてある。この表現は敗退の婉曲表現であって、要するに釜山浦の戦いは朝鮮水軍の敗退ってこと。

『宣祖修正実録』以外でもでも、李舜臣本人の記録を別にすれば殆ど景気のいいことは言っていない。

なのに、韓国では李舜臣の大勝利としている。おかしなことだ。その影響と思われるが、Wikipedia英語版でもDecisive Korean victory(朝鮮の決定的勝利)となっている。呆れた話だ。

2011年8月31日水曜日

Wikipediaに『黄石山城の戦い』を立てる

黄石山城の戦い – Wikipediaを新規に立てた。朝鮮や明の人名や地名には、日頃目にしない文字が多く、変換に苦労することが多い。

2011年8月7日日曜日

文禄・慶長の役の名称を「七年戦争」「Seven Years' War」と呼ぶことの不適切さ

時々、韓国発信の情報で文禄・慶長の役の名称を「七年戦争」。英語になって「Seven Years' War」という表現を見かける。しかし、こうした名称は使わないほうがいい。七年戦争という名称はすでに1756年-1763年にプロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争として使われている。(七年戦争 - Wikipedia
前回の投稿“文禄・慶長の役の名称を「壬辰倭乱」「壬辰戦争」と呼ぶことの不適切さ”で干支を歴史的出来事の名称として使用することが重複の可能性があることを不適切な理由の一つとして指摘した。この「七年戦争」という名称は他の有名な戦争名と完全に重複している。ようは他の出来事と重複するような名称は避けるべきということ。

2011年7月24日日曜日

文禄・慶長の役の名称を「壬辰倭乱」「壬辰戦争」と呼ぶことの不適切さ

「文禄・慶長の役」の呼称について、韓国では「壬辰倭乱」と呼ばれている。また最近では「倭乱」部分を「戦争」に変えて「壬辰戦争」という呼称が鄭杜煕らによって提唱されている。しかし、これら「壬辰」を冠した呼称は不適切なものである。

先ず1点目の理由を述べる。日本の文禄元年(西暦1592年)が干支の壬辰年に当たるため、「壬辰倭乱」や「壬辰戦争」という戦争名にしようというものであるが、しかし実際のところ文禄・慶長の役は停戦期間を挿みながら慶長3年(西暦1598年)まで7年間にわたって戦われた戦争である。ところが「壬辰」とは、文禄元年(西暦1592年)の一年間しか表さない。このことを考えると「壬辰」を7年にわたる戦争の呼称として用いることは、全く不適切なものといえる。

次に2点目の理由を述べる。干支とは元々年代の記述法として合理的なものではなく、これを歴史年代に用いることは混乱を招くものであること。干支とは60年周期で一巡するもので、同じ干支年は歴史上無数に存在している。「壬辰」年だけを例にとっても、紀元後だけで、32年・92年・152年・212年・272年・332年・392年・452年・512年・572年・632年・692年・752年・812年・872年・932年・992年・1052年・1112年・1172年・1232年・1292年・1352年・1412年・1472年・1532年・1592年・1652年・1712年・1772年・1832年・1892年・1952年と、これら全てが「壬辰」年で、さらに今後も、2012年・2072年・2132年・2192年・2252年・2312年・2372年・2432年・2492年・2552年・2612年・2672年・2732年・2792年・2852年・2912年・2972年、と永久に続いてゆく。このような干支記年を態々現代に歴史的出来事の呼称として用いるべきであろうか?

歴史的な遺物に干支が記年されている場合が多々あるが、干支年は無数存在するため、これら遺物の実年代が何時のものなのか明確でなく混乱を招いているケースが少なくない。例えば、隅田八幡神社人物画像鏡銘文に記された「癸未年」がいつに当たるか、西暦443年や、503年などが唱えられているがはっきりしない。当時は他に適切な年代記述法方法が無かったため止むを得ないし、何も記されていないよりは余程良いことだが、やはり歴史的事実を究明する障害となっており、残念なことだといわざるを得ない。

戦争に関しても、これまで他に「壬辰」年に戦争が起きていないのだろうか?今後「壬辰」年に戦争が起こらないといえるのだろうか?
古くから既に定着している干支年を用いた歴史的出来事については、そのままにしておいてもよいかもしれないが、今現在に、こうした混乱を招く年代記述方理由法を態々新たに用いるのは、不合理なものといえる。

最後に3点目を述べる。「壬辰」は「壬申」と同様に「じんしん」と読み、紛らわしくなること。実際に「壬申倭乱」という誤った表記でWEB上を検索すると大量にヒットするのがその証となる。すでに歴史上重要な出来事として「壬申の乱」が存在することもあり、混乱を生じかねない。

以上、3点の理由から「文禄・慶長の役」の名称に「壬辰」を付けることに反対する。

(追記)「壬辰戦争」という呼称を用いるべきという主張には、国際的に同一の呼称で統一するという目的があるようだが、漢字表記が同じになったところで、各国の呼び方ほ異なっている。日本で「壬辰」は「ジンシン」で、韓国では「イムジン」となるので結局のところ呼称の統一にはならない。漢字表記だけでも統一することに意味があるという意見もあるかもしれない。しかし、韓国では一般に漢字では表記されず、ハングル文字で「임진」と表記されるので、殆ど無意味なものとなる。英語などでアルファベットを使用して表記する場合も、日本語の「jinshin」とすべきか、韓国語の「imjin」とすべきか、或いは北京語の「rénchén」にすべきかといったことになり、呼称統一という目的を達するこはできない。無理に呼称統一を図ろうとしても、デメリットばかりが多くメリットは少ない。

2011年6月18日土曜日

幻の慶長四年の役が実施されていたら・・・

秀吉の死により慶長三年で終結した朝鮮出兵。もし秀吉が死去せず戦争が継続されていたらどうなっていたか?

『島津家文書 二‐九七八』には慶長四年に大軍を再派兵して攻勢作戦を実施することが書かれている。これが実際に起こっていたらどうなっていたか? 仮定の話になるので断定的なことは言えない。しかしある程度の状況分析は可能なので色々と検討してみることにする。

明・朝鮮側は慶長二年に全羅道・忠清道を打破された挙句(参照,慶長の役戦略,全羅道への進撃,全羅道・忠清道掃討)、反撃に出た蔚山で惨敗し(参照,蔚山戦役)、再挙して挑んだ慶長三年9月から10月にかけての三路の戦いでも倭城守備軍の九州勢のみから成る日本軍に惨敗を喫し(参照,三路の戦い)「而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録十月十二日条』」といった具合で、兵力の損失と士気の低下は覆いようもなかった。

逆に勝利した日本軍では朝鮮駐留軍即ち九州勢は意気軒昂であろうし、これに国内でリフレッシュされた再派遣軍が加われば士気やコンディション更には兵力の面で日本軍側が優位といえる。

この当時、国土で戦争が続いた李氏朝鮮は、極度に疲弊していた。
  • 全国の人口は戦前の六分の一か七分の一にまで減少。
  • 戦後の耕地面積は戦前の170万8千余結(1結は一等田で約1ヘクタール、六等田で約4ヘクタール)から54万1千余結と三分の一に減少。
  • 首都漢城の戸数は戦前の8,9万戸から4万戸に減少。
貫井正之『歴群35 文禄・慶長の役 P59(1598年12月~1607年1月 - 朝鮮・日本)』
  • 戦争直前の田地総面積170万8千余結が、戦後には30余万結と五分の一以下に激減し、戦前の全羅道一道にも及ばず。
愛宕松男・寺田隆信 『中国の歴史6』 講談社
このことから朝鮮の戦争遂行能力が大きく低下していたことは明らかだ。もちろんこのことは明軍への兵站供給能力の低下をも意味する。

もう一つ、日本軍の動員範囲について検討してみる。実施された慶長二年の役の動員は限定的範囲に限られており、九州・四国の全域と、中国地方では毛利と宇喜多で山陰の大名は動員されていなかったようだ。近畿では淡路・紀伊まで、以上に過ぎなかった。総兵力は14万余である。一方、幻に終わった慶長四年の役の動員範囲を検討すると、『島津家文書 二‐九七八』に慶長四年の役の大将として指名されているのは福島正則・石田三成・増田長盛の三名である。 注目すべきは三名の領地で、福島が尾張清州・石田が近江佐和山・増田が大和郡山であり、これで彼らが畿内から濃尾平野にかけての領主であることがわかる。とすれば、この三名だけでなく他の畿内から濃尾平野の大名にも動員がかけられていた可能性が高く慶長二年の役よりも広い範囲となる。この場合、日本軍の総兵力は慶長二年の役の14万余よりも多くなるのは間違いない。明・朝鮮軍が三路の戦いで動員した兵力は11万余であり、これが三路の敗戦で損耗されているため、兵力面での日本軍優位が判る。

更に明・朝鮮側にとって悪いことに満州方面で建州女真のヌルハチが暴れだしているという事情がある。慶長3年(1598年)の12月には、ヌルハチが開元・瀋陽・遼東・鴨綠以西を搶掠しようとしたため、経略邢玠は遊撃李芳春・牛伯英らの軍勢を朝鮮から引き上げて防備させなければならない事態になっている(宣祖実録・宣祖31年12月甲子・乙丑)。もはや対日戦争に注力できない状況にあったといえる。

これらの事情から、もし慶長四年の役が実施されていたらどうなっていたかを総合的に検討してみると日本軍側に分があると私はみる。 いずれにせよ慶長三年秋頃には、朝鮮国内における明軍の兵力は文禄の役時よりも大きく上回っていた。もし戦争が継続していたなら慶長四年が大軍同士がぶつかり合う決戦の年になていたであろう。

関連
“真相” 文禄・慶長の役

2011年5月30日月曜日

楊元 - Wikipediaを新規作成

楊元 - Wikipediaを新規作成。

楊元は明軍の武将の中で比較的健闘したほうだと思う。
守将として戦った南原城の戦いでは、籠城の末落城したといっても兵力差を考えると落城はやむを得ないことだし、逃走したことも落城寸前まで戦った末のこと。それらを考え合わせると処刑は酷ではなかろうか。
南原城の戦いが始まる前、朝鮮の諸将は至近の朝鮮式山城の蛟龍山城に籠城することを主張したが、楊元はこれを却下して平地の中国式平城の南原城で籠城し、最後は落城した。朝鮮の高官である柳成龍は『懲毖録』の中で平地の南原城に籠城したことに批判的で、「平城はダメで山城ならよかったという」趣旨の主張をしている。しかし、同時期に朝鮮式山城である黄石山城が日本の右軍の攻撃で二三日で陥落している。これに対し、南原城は数日間持ちこたえていることを考えれば、この主張は説得力に欠ける。

2011年5月26日木曜日

李如松一族の愉快なネーミングセンス

文禄の役で総兵官として明軍を率いたのは李如松。その弟、李如柏、李如梅、李如梧も文禄・慶長の役に参加している。

ちょっとここで、この李如松一族の名を並べてみると

父 李成梁
叔父 李成材
弟 李如柏、李如楨、李如樟、李如梅、李如梓、李如梧、李如桂、李如楠

見ての通り、李如松の兄弟は、松(マツ)の如し柏(カシワ)の如し楨(ネズミモチ)の如し樟(クスノキ)の如し梅(ウメ)の如し梓(アズサ)の如し梧(アオギリ)の如し桂(カツラ)の如し楠(タブノキ)の如し、と皆(樹木名)+(如し)になっている。彼らの父、李成梁が自分の息子たち全員を(樹木名)+(如し)で統一したことになる。

そして、李成梁とその兄弟といえば、梁を成す材を成す、と(木からできる部材の名)+(成す)が付けられている。二人の父、李英のネーミングと思われる。

何かこの一族は、よほど木にこだわりがあるようで、彼らのネーミングセンスはおもしろくて興味深い。

2011年4月28日木曜日

文禄の役、日本側戦死者数算定方法の不適切さについて

 文禄・慶長の役開始前の陣立書に書かれた人数から、晋州城攻撃時等の陣立書に書かれた人数を差し引いた数値を日本側戦死者数のように主張するものがあるが、こうした単純な引き算による戦死者数算定は国内に送り返された者の人数を考慮していないものであり不適切である。

 文禄元年11月10日付書状で熊川に残置する警護船以外の水夫を帰国させ休養させるよう指示している。
手前所持之舟、こもかい口警護船ニ申付分残置、其外ハ慥奉行相副漕戻、かこ共在々へ遣、可休候

 さらに、文禄の役開始2年目の文禄2年2月5日付書状では、秀吉は朝鮮に渡った水夫を、15歳から60歳までの者をすべて名護屋まで送るよう命令している。

 水夫の比率がどの程度のものかというと、文禄元年の五島純玄勢を例に取ると、軍役人数705人の内、船頭と水夫が200人と3割に近い高比率を占めている。船頭と水夫の比率は五島勢以外でも違いはあれども低くはないはずである。他にも傷病者が後送されている可能性も十分考えられる。

 このように多くの人員が晋州城攻撃より前の時点で朝鮮から引き上げているのであり、こうした国内に送り返された者の人数を考慮せず、単純に文禄の役開始前の陣立書に書かれた人数から、晋州城攻撃時等の陣立書に書かれた人数を差し引いた数値を日本側戦死者数のように主張する戦死者数算定方法が適切性を欠いているのは明らかである。

(そもそも、軍役人数の内、水夫は大名に付き従って内陸の作戦に参加していないのではなかろうか。)

2011年4月24日日曜日

水軍拠点を本土や大きな島に置くことを好まなかった李舜臣

李舜臣の水軍拠点について。
文禄・慶長の役が始まる前、朝鮮王朝は水軍の拠点を本土や大きな島に設置していた。主要な拠点は以下の通り。

慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻
※水使=水軍節度使=水軍司令官
板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当 

 これらの水軍拠点は何れも水路の要衝に位置しており水軍の出撃や水路の抑えとして好位置である。しかし、李舜臣はこうした朝鮮本土や巨済島のような大きな島の拠点を好まなかった。文禄の役で(文禄2年7月14日)閑山島に、慶長の役でも古今島に本営を移した。この二つの島は何れも小島である。

このような小島に本営を置く理由は日本軍による陸上からの攻撃を恐れてのことと思われる。本土の拠点は日本軍から陸伝いに侵攻を受ける恐れがあるし、島に置かれた拠点でも島が大きいと離れた位置に上陸してから陸伝いに侵攻を受ける恐れがある。

李舜臣は陸上で日本軍と戦うことには自信がなかったようだが、船同士で戦う船戦には自信を持っていた。朝鮮の水軍基地である水営は低くて簡素な城壁を周囲に廻らす程度のもので、決して堅固な構造ではなく、陸から日本軍の攻撃を受けたならば防衛は困難だ。小島に拠点を置いておけば、日本軍が侵攻するなら必ず船で海上からやってくることになり、水上戦で迎撃することが出来きるということだ。

2011年4月16日土曜日

順天城の戦いで明将劉綎が総攻撃失敗の後、攻撃を停止した理由

(参照→三路の戦い - “真相” 文禄・慶長の役
慶長3(1598年)9月19日から10月7日にかけて、明・朝鮮軍が小西行長の守る順天倭城を攻撃した。この順天城の戦いは東アジアにおける当時最先端の水陸の軍事技術、攻城・守城術が駆使された興味深い戦いであるが、この時の明・朝鮮の陸軍総司令官である劉綎の行動に疑問が浮かび上がる。

この戦いでは10月2日の総攻撃失敗の後、明の陸軍を率いる劉綎は攻撃を停止し、水軍のみが攻城を継続する結果となっている。水陸共同の攻城は劉綎の提案によるものであるにも係らずである。何故か?

それは、陸からの倭城攻撃が損害を出すばかりで成功の見込みが無く手詰まり感を感じるようになったからであろう。ただし、水軍による海からの攻撃には成功の可能性ありと希望を見出していたからではなかろうか。

遡って前年の慶長2(1597年)12月22日から翌慶長3年(1598年)1月4日にかけて戦われた蔚山城の戦いにおいても攻城戦で城内からの鉄砲の射撃により明・朝鮮軍は膨大な損害を出して攻城に失敗している。(参照→蔚山戦役 - “真相” 文禄・慶長の役) この時、攻城具なしで攻めかかったことが膨大な損害と攻城失敗の原因であると明・朝鮮側は認識したようだ。

この戦訓を取り入れて、順天城の戦いでは、劉綎は一時攻城を中断してまで雲梯、飛楼、防車、防牌等の攻城具を制作し、10月2日万全の態勢を整え順天城の惣構(外郭部)に攻めかかった。しかし、またもや城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃は激しく、結局多くの死傷者を出して攻撃は失敗している。攻城具の防御力もせいぜい小銃弾程度が限界で、大口径の火器に対しては十分な効力が無かったのではなかろうか。また日本軍は出撃戦術も併用して攻城具を焼き払い、明・朝鮮兵を白兵戦で撃攘している。劉綎にしてみれば万事休すといったところで、手詰まり感を感じざるを得ないだろう。

もし何らかの可能性を見出すなら、それは水軍による海上からの攻撃しかあるまい。順天城の遺構を見る限り陸側の外郭は石垣で固められた防壁が守りを固めており、突破することは困難である。それに対し、海側に目を転じてみると、石垣の防壁はなく海側防御は陸側よりも弱いことが判る。もし水軍が海側から惣曲輪内に侵入することに成功すれば、その時、陸側からも呼応して城内に雪崩れ込むと、惣構(外郭部)の防衛ラインを突破することが出来るはずである。劉綎は水軍による城内侵入成功を待って模様眺めしていたのであろう。

しかし、水軍の攻撃も成功せず、劉綎はただ傍観を続けるだけとなった。こうした状況で明水軍を率いる陳璘や、朝鮮水軍を率いる李舜臣は、水軍にのみ戦いを強いて自らは動こうとしない劉綎に対し憤怒の念を抱いている。

結局、陸からも海からも攻城成功の可能性がないことが判り、更に悪いことに泗川城を攻撃していた中路軍が島津軍に大敗したニュースが飛び込んでくると、もはや長居は無用とばかりに明・朝鮮軍は退却していった。

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“真相” 文禄・慶長の役

2011年4月14日木曜日

朝鮮使との会見

1590年、唐入りを前に、来日した朝鮮使を接見する場において、豊臣秀吉は我が子の鶴松を抱いて登場した。この時の秀吉の意図は、我が子を愛する父親の姿を演出すことで、自らの人間味を朝鮮使に見せ、場の雰囲気を和ませ、以後の日朝関係を円滑に進めたいと考えたのではないか。

 しかし、こうした秀吉の意図は堅物の朝鮮使には理解できなかった。朝鮮使、すなわち朝鮮官僚にとっては儒教的形式主義に沿った行動こそが唯一絶対の人間が取るべき行動であり、秀吉の我が子を愛おしむ姿での応対は、儒教的形式主義から逸脱するものであり、非礼なものと映った。

 ここに、東方礼儀の国を自称する儒教(特に朱子学)原理主義の朝鮮と、儒教的影響を表層的にしか受け入れなかった日本との文明感の違いがよく表れている。

 そもそも、単に接見の形式だけの話ではなく、儒教的価値観を国家の基本理念とする李氏朝鮮からすると、中華王朝へ政治的にも文化的にの服従することこそが、礼節に即した正しい行為であり、中華王朝へ攻め入るなどは、非礼であり邪道でしかないともいえる。