一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。出征諸将に発せられた2月21日付朱印状(立花文書他)によると、ここでも最終的な目標としているのは「大明国迄可被仰付事」とあるように、文禄の役と同様に明の征服である。ただし、その前に「自然大明国者共、(中略)、即時被討果」と、明の野戦軍主力を朝鮮南部において撃滅してから、明本国に進撃する計画が書かれている。
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
一、自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者可爲越度事。
– 慶長二年二月二十一日付朱印状より抜粋, 『立花文書』
最終的な目標とは別に、当座の作戦目標は、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもで、これを達成した後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(九州の大名)を定めて、「帰朝之衆」と呼ばれる他の諸将(四国・中国の大名及び一門衆の小早川秀秋)は帰国するという計画であった。
当座の作戦目標となった全羅道は文禄の役で未征服に終わった地であり、朝鮮の水軍の他、義兵、官軍の出撃根拠地となった地であった。忠清道も釜山・漢城間の要路周辺以外は未征服地が多く、同様の役割を果たしていた。明本国へ進もうと思うならば、進行経路を側背から脅かすこれらの地を成敗し、反撃の芽を断っておく必要が生じる。全羅道成敗は既に文禄2年の晋州城戦役の際に懸案事項として上がっており、日本軍としては何としても成敗しなければならない場所といえる。
慶長に役の目的を南部四道の占領にあるとする説もあるが、そうした説を裏付ける文献を見つけることは出来ない。むしろ慶長2年から3年にかけて発せられた書状を見る限り、文禄の役のように土地の占領に拘るのではなく、2.3年に一度大軍を派遣し、進攻しては引き上げるといったヒット・アンド・アウェイ戦略を長期にわたり繰り返すことで、敵に戦略的打撃を与えて屈服させるのが目的であったのではないか。朝鮮の南部は朝鮮王朝の土台を支える豊かな土地で、ここを繰り返し荒らされたならば、朝鮮王朝は確実に疲弊し、やがては耐えることが出来なくなるだろう。慶長2年(1597年)の進攻作戦はその第一弾となる進攻である。
文禄2年(1593年)の戦役(第二次晋州城の戦い)は、釜山周辺域から出撃し、晋州城を落として破壊すると、続いて慶尚道西南部から全羅道東南部を掃討して撤収している。この経緯を見ると、限定的ながらも既にそういったヒット・アンド・アウェイ戦略の性質がある。この戦役はプレ慶長の役的なものと言えるかもしれない。
朝鮮に対する意義とは別に、日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略の明に対する意義は、「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事」とあるように、その野戦軍の朝鮮南部出撃を誘い殲滅することで抗戦能力を奪い、その後、進撃して征服するか、もしくは屈服させようという戦略であったと考えられる。
日本軍にとり朝鮮南部とは、兵站線の延伸を来さないため補給は容易であり、また兵力の集中運用も可能で、良好な状態で明との決戦に望む事ができる戦域といえる。冊封国である朝鮮に対し日本軍が進攻を繰り返したならば、宗主国たる明としては放置出来ず、日本軍を朝鮮から駆逐するため、本格的に派兵して戦いを望まざるを得ない。つまり、慶長の役における日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略は、明の大軍誘引のための戦略的挑発としての側面を持つのである。
慶長の役では日本軍の戦略の一つ一つが文禄の役の反省に立脚するものとなっている。
- まず、慶長の役では朝鮮水軍を最初に殲滅し、その後に地上軍の進撃を開始した。これは文禄の役で朝鮮水軍に苦汁をなめさせられた反省に立脚する。
- 次に、進攻方向は漢城を目指すのではなく、水陸から全羅道を目指した。これは文禄の役では漢城を目指して真っ直ぐに北上したために、全羅道が未入地として残り朝鮮側が水陸から反撃する策源地となった反省に立脚する。全羅道への進攻は朝鮮水軍の根拠地の破壊をも意味する。
- もう一つ、慶長の役では土地の占領に拘るのではなく進攻して敵に打撃を与えては引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略をとる。文禄の役では土地の占領に拘ったため、兵站線が伸びて補給に苦しみ、また広い占領地に兵力が分散してしまい力を発揮できなくなった。こうした反省に立脚するものである。
- 進撃開始時期が文禄の役の春とは違い秋の収穫期を前にした時期というのは、その年の収穫を敵に収穫させず、自軍が入手するという目的も考えられる。実際に、日本軍の撤収後、当方面に再展開した李舜臣は極度の兵糧不足にに苦しみ、通航する船や海上に避難した住民から食料を徴収して窮状をしのがざるを得なかった。