2010年12月27日月曜日

(旧版)占領地の拡大と兵力分散

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日本軍は広域に占領地を拡大すると、各地に兵力を分散させることとなり、補給線は伸び補給が滞った。伸びた補給線上の拠点には数百人づつの兵が置かれるが、この程度の兵力では、各地で起こった義兵に兵力で劣り、しばしば苦戦する事態が見受けられるようになる。 この問題に対処するため諸将は漢城で会議を開き、占領地拡大策を停止し、主要都市と補給路上に兵力を集中する方針に切り替えた。しかし補給の滞りは解消されず各地で兵糧不足に悩まされた。

出征軍兵士のほとんどは温暖な西日本出身であり、冬になると寒気に悩まされ、また疾病が多く起こり戦闘よりも病気により多くの兵が失われた。

十二月十日頃の釜山~漢城間の配置
漢城 増田長盛、石田三成、大谷吉継
陽智 中川秀成、宇喜多秀家
竹山 福島正則
忠州 蜂須賀家政、生駒親正
聞慶 長宗我部元親
咸昌 長宗我部元親
尚州 戸田勝隆
善山 宮部長煕
仁同 木下重堅、南條元清
大丘 稲葉貞通、斎村広道、明石則実
密陽 別所吉治、岐阜衆(旧豊臣秀勝臣下か)
東菜 岐阜衆(旧豊臣秀勝臣下か)
釜山 百々三郎左衛門(百々綱家と同一人物か?)、三輪五右衛門(旧豊臣秀勝臣下)
十二月十日付朱印状『鍋島直茂譜考補』より

初期の義兵
慶尚道:郭再祐 鄭仁弘
全羅道:高敬命(第一次錦山城の戦いで戦死) 金千鎰(第二次晋州城の戦いで戦死)
忠清道:趙憲(第二次錦山城の戦いで戦死)