こちらに移植→朝鮮の国防策 - “真相” 文禄・慶長の役←最新版はこちら
朝鮮では北方国境地帯における女真族との状態的な紛争に対処するため有望な武将は北方国境地帯に配置されていたが、秀吉軍の侵入に備えて慶尚道・全羅道・忠清道に諸将を配置転換し、特に慶尚道永川・清道・三嘉・大邱・星州・釜山・東莱・安東・尚州の兵営と城砦に増改築が加えられ、日本に近い沿岸各道の水営(水軍)には水師(水軍司令官)として有望な人材を配置した。このうちの全羅左水師に抜擢されたのが李舜臣で、1591年2月13日のことである。1591年6月には宗義智自ら釜山を訪れ、秀吉の征明戦争が近日決行されることを警告。また、文禄の役開始約6ヶ月前の1591年10月24日には、朝鮮は明に対し「(朝鮮は)沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。日本から侵犯を受ければ撃滅いたします。朝廷(明)も警戒してください。」といった旨の上奏文を携えた使節を送っている。(『簡易集』巻1「辛卯奏」)
朝鮮水軍の配置
慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻
※板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当(板屋船の隻数は金在瑾『亀船』に掲載された推定値。)