慶長3年(1598年)各城郭の防衛体制が整うと帰朝之衆(小早川秀秋及び四国・中国・淡路衆)は帰国し、九州勢が在番して久留の計を実施。この年の内は本格的な進攻を行う予定はなかった。
帰朝之衆が帰国したことについて、戦争に敗北したため退却を開始したかのような言説が存在するが、これは全くの誤りである。慶長の役発動前に発せられた作戦要務令ともいえる慶長2年(1597年)『2月21日付朱印状(立花文書他)』に城普請を担当する「帰朝之衆」について記述されているように、慶長の役開始前から決まっていた予定通りの帰国である。
この時代の軍隊は、通常はそれぞれの領国か政権中枢部に駐在し、いざ敵に対し大規模攻勢をかけるときや、敵の攻勢に対する大規模救援を行う場合のみ、敵対勢力との境界付近に結集し大軍となって作戦を決行するものだ。帰朝之衆が帰国したのも、この慶長3年(1598年)の内は大規模攻勢の予定がなく、各倭城の防御体制も整ったため予定通り帰国したに過ぎない。
- 蔚山城 10000人加藤清正
- 西生浦城 5000人黒田長政
- 釜山の本城 5000人毛利吉成・島津忠豊・相良頼房・伊東祐兵・高橋元種・秋月種長
- 釜山丸山城 1000人寺沢正成
- 竹島城・昌原城 12000人鍋島直茂・鍋島勝茂
- 見乃梁城(唐島瀬戸口) 兵数不明柳川調信(宗の部将)
- 固城 7000人立花統虎・小早川秀包・高橋統増・筑紫広門
- 泗川城 10000人島津義弘
- 南海城 1000人宗義智
- 順天城 13700人小西行長・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島玄雅
この進攻計画について、明・朝鮮も察知しており 宣祖修正実録7月1日に 「明年, 秀吉 領大兵, 進犯遼左, 此正先發制人之秋。」とあり、明・朝鮮軍はこの機先を制するための作戦を実施する。
是時,
東路明軍24000人, 朝鮮軍5514人 (東路軍計29514人)
中路明軍26800人, 朝鮮軍2215人 (中路軍計29015人)
西路明軍21900人, 朝鮮軍5928人 (西路軍計27828人)
水路明軍19400人, 朝鮮軍7328人 (水路軍計26728人)
明軍計92100人 朝鮮軍計20985人 共計113085人
資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。
(宣祖実録10月 12日)
慶長3年1598年、9月から10月にかけ兵11万以上を動員し、蔚山・泗川・順天の三倭城を同時攻撃した。これは文禄・慶長の両役を通じて明・朝鮮軍が行った最大の作戦であった。また第一次蔚山城の戦いのおいて防車などの攻城具がなかったため大損害を出して攻略に失敗した苦い経験から攻城具を準備して攻略にかかった。だが、これを迎え撃つ日本の各倭城では、城郭の防御力強化工事、石火矢の配備など火器の増備、兵糧の備蓄が行われており、鉄壁の構えであった。このため何れの城も攻略に失敗し、特に泗川では島津軍に大敗を喫した。- 第二次蔚山城の戦い - 加藤清正 対 東路軍麻貴、金応瑞
第二次蔚山城の戦い史料
麻貴退師于島。淸正自去年受圍以後。聚諸陣軍兵。幷力堅守。大軍臨城。計無所出。乃卽退出本道。左防禦使權應銖報元帥云。本月十九日。麻提督掩擊東萊城內溫井等處之賊。二十日。移兵島山。只爇外柵。城將陷。賊丸如雨。天兵被害。不知其數。天兵日日挑戰。固守不出。不得已退師。大槩賊兵之衆。十倍於上年。城柵之險。又甚於前日。觀其兵勢。未知上策云。圍城一旬。賊勢日熾。一日李副總題送絶句于兵相云。蚌鷸持多日。王師久未旋。
趙慶男『乱中雑録』
(前略)此面(蔚山)へも去廿一日ニ、人数七八万罷出候、雖然、及数度討果候之故、城際ニ陣取候事不成、廿町程引退、対陣候行と相見候、(後略)–
加藤清正書状(9月27日付、島津義弘・忠恒宛), 『島津家文書之二 九六九』
(前略)一 蔚山表之儀も、此方へ注進候、敵三万騎ニて押寄候處、大鉄炮ニて打立、手屓死人不知其数ニ付而、引退令対陣之由候、御手前悉被追崩通承候者、定而蔚山表も可爲敗北と存候、(後略)–
長束正家・増田長盛・徳善院玄以、連署書状(11月3日付、島津義弘・忠恒宛), 『島津家文書之二 九九〇』
“提督自內城退遁之後, 頗有畏怯之意, 方欲退陣 慶州 矣。”–
麻提督 接伴使 李光庭の報告, 『宣祖実録10月 2日』
“提督聞中路之敗, 將欲退守于 慶州 , 步兵則已爲發送, 不勝悶慮事。”–
麻提督 接伴使 李光庭の報告, 『宣祖実録10月 10日』
- 泗川城の戦い - 島津義弘 対 中路軍董一元、鄭起龍
- 順天城の戦い - 小西行長 対 西路軍劉綎、権慄、金晬,水路軍陳璘、李舜臣