忠清道に進んだ北進隊では9月7日、黒田軍の先鋒隊が稷山において明軍と接触し交戦状態に入ると、黒田長政本体が駆けつけ戦闘に加わる。明軍にも援軍が加わったが、この時の明軍部隊は少数にすぎず、毛利秀元軍が赴援に駆けつけると衆寡敵せず水原方面に退却した。稷山での戦闘後、北進隊は京畿道に入り安城・竹山へと進む。
一方、陸海からの全羅道掃討作戦の最終段階で起こったのが鳴梁海戦である。漆川梁海戦で壊滅的打撃を被っていた朝鮮水軍は、三道水軍統制使に李舜臣を復職させたが、僅か13隻の戦船を残すのみであり、劣勢は明らかであった。9月16日、李舜臣は鳴梁海峡で数的優勢な日本水軍を迎え撃ち、関船のみで編成された日本水軍の選抜部隊を痛打したが、陸海から大軍で迫る日本軍を前ににこれ以上踏み留まることは不可能であり鳴梁海峡から退却する。これにより日本水軍は全羅右水営、珍島を占領し、鳴梁海峡を抜けて全羅道西岸に進出した。また南下していた陸軍も海南に達し、ここに作戦目標であった全羅道全域の掃討を達成する。
目的を達成した各日本軍は計画通りにそれぞれ反転し、次の目標として定められていた築城を、蔚山から順天の間で開始する。朝鮮側では、この日本軍の反転理由を掴むことができず、日本軍の罠ではないかと疑うほどであった。
- 9月7日 稷山の戦い
この戦いに関する日本側の史料が日本軍の勝利と記録されていることはいうまでもない。[19]
一方の明・朝鮮側の記録で明軍の大勝利となっているのは、後に編纂された史料のみで、信頼性の高い一次史料によるならば、明軍の勝利とはなっていない。たとえば、『宣祖実録』においても、戦果を強調しているのは倭軍の先鋒(黒田軍内の先鋒隊)に対してのみで、「天安 大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵 等四將, 去夜發 稷山 前來, 唐兵亦多死者云。[20]」とあるように、戦場に黒田軍本体、さらには毛利軍が駆けつけるに及び、明軍は数的劣勢に陥ったため退却し、また多くの死者を出したことも記録されている。このころの明・朝鮮軍の防衛体制は崩壊しており、稷山に進出した明軍も2千から4千程度の少数に過ぎず、有力な日本軍と正面対決して勝利できるような存在ではなかった。
因みに、この時日本軍主力は遠く離れた全羅道の掃討を実施しており、何ら損害を受ける状況にはなく、稷山の戦いの影響で撤退するなどあり得ない。
この戦いの後、北進した加藤・黒田・毛利等は「賊於初十日, 搶掠 安城 , 進犯 竹山 境。[21]」とあるように、京畿道内の安城・竹山方面に前進した後反転し、全羅道の掃討を完了した日本軍主力も移陣し、全軍をもって半島南岸に築城を開始する。これは慶長の役発動前から予定されていた行動であり、8月の全州会議においてもこの方針が再確認され、ここでより具体的行動が定められ、定められた通りに行動した。
このころの明・朝鮮軍は、「賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。 安危、成敗, 決於江上, 而但令 崔遠 守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。[22]」とあるように、主防衛戦を漢江のラインに設定し、ここをなんとか死守しようとしていたが、極めて危機的状況にあった。しかし日本軍が自主的に反転したため命拾いしたのが実状である。
日本軍が反転した理由について、「今無故忽爲退遁。 萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術, [23]」と、朝鮮側では理解できておらず、日本軍が仕掛けた罠ではないかと疑い、明軍がその術中に陥らないか心配している。
- 9月16日 鳴梁海戦