2010年12月27日月曜日

(旧版)朝鮮との交渉

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明の征服とアジア諸国の服属を企図していた豊臣秀吉は、1587年九州征伐に際し、臣従した対馬の領主宗氏に「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を実現させるよう命じた。

交渉に当たった対馬の宗氏は、これを何とか穏便に済まそうとして、秀吉が求める「朝貢使」の派遣を秀吉の全国統一を祝う「祝賀使」の派遣にすり替えて要請すると、朝鮮としても日本側の状況を探りたい事情もあり1590年使節を派遣した「賊探使」。

もっとも朝鮮側にしてみれば使節は表向きが「祝賀使」であり、実態は「賊探使」であり、秀吉に対して「朝貢」したつもりも「服属」したつもりも無かったのだが、この朝鮮使節を宗氏は「朝貢使」と称して秀吉に謁見させた。これは秀吉からしてみると、朝鮮が要求に応じ「朝貢使」を派遣し「服属」してきたことになり、以前からの要求通り朝鮮に対し征明の先導(征明嚮導)を命じた。

ここで困窮したのは虚偽の報告をしていた宗氏で、思案の末、朝鮮には秀吉の要求を「途(みち)を仮(か)す」(假途入明)とすり替えて要請したが、建国以来明に服属する朝鮮は(征明嚮導)であれ(假途入明)であれ、要求には応じなかった。これは秀吉にしてみれば朝鮮が「服属」の誓約に違反したことになる。このためまず朝鮮を制圧し、然る後に明に攻め入る方針を定めた。

朝鮮では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。