2010年12月27日月曜日

(旧版)出兵準備

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天正19(1591)年1月20日、秀吉は全国に造船命令を発する。
  • 一、海に面した国々は東は常陸から、北は秋田から、それぞれ九州まで、石高10万石について大船二艘を用意すること。
  • 一、直轄領は10万石について大船三艘、中船五艘を作る。
  • 一、水手(船員)は浦ごとに100軒について10人を出す。
12月5日山内一豊(遠江掛川)松下吉綱(遠江頭蛇寺)に命じ、大井川河口にて建造中の船舶は、長さ19間だったのを18間に改め、幅は依然6間とする。日本戦史40
また同年、秀吉は出兵の本拠地として肥前国名護屋城(佐賀県鎮西町)を、朝鮮半島への中継地として壱岐島風本に勝本城、対馬府中に清水山城、釜山を望む対馬北端大浦の撃方山に撃方山城の建設を始め、出兵開始までに完成させた。
舟奉行(文禄の役初期に渡海軍を円滑に輸送する役割)
  • 高麗舟奉行・・・早川長政、毛利高政、毛利重政。
  • 対馬舟奉行・・・服部一忠、九鬼嘉隆、脇坂安治。
  • 壱岐舟奉行・・・一柳可遊、加藤嘉明、藤堂高虎。
  • 名護屋舟奉行・・・石田三成、大谷吉継、岡本宗憲、牧村政治。『 鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書』
(後に戦局の進展に伴い服部は釜山に移り、九鬼・脇坂・加藤・藤堂は水軍を専管する。)
  今次の出征は船舶甚だ肝要なれば多数に準備したるをその功とし、諸部隊の船舶を録上して之を船奉行に交付しその指図を受けて逐次渡海すべく朝鮮の地に上陸をしたならば、各隊の船舶には自家の奉行一人づつを附し対馬に送還し後続部隊を乗船せしむべし。『日本戦史 毛利家文書』
正月5日、在京の諸将に国に就て征外の準備を為さしめ、加藤清正に題目(南無妙法蓮華経)の旗、小西行長に良馬を賜う。この2人は年来征外の先鋒を希望していた。『日本戦史41』 秀吉、在陣地の地下人・百姓等の逃散を禁止し、押買押売および乱暴狼藉の連中は「一銭切(銭一文を奪っても死罪に処する)」にすべきこと。また、その他の法度に対する違反者も厳罰に処することを通達。『毛利家文書』
日本軍の編成
出兵を前に、九州・四国・中国地方の大名を主力とした以下の戦闘序列が定められた。
一番隊18700人 4月12日釜山上陸 翌日攻略小西行長7000人(肥後宇土) 宗義智5000人(対馬府中) 松浦鎮信3000人(肥前平戸) 有馬晴信2000人(肥前日野江) 大村喜前1000人(肥前大村) 五島純玄700人(肥前福江)
二番隊20800人 4月17日釜山上陸加藤清正8000人(肥後隈本) 波多信時2000人(肥前貴志岳) 鍋島直茂10000人(肥前佐賀) 相良頼房800人(肥後人吉)
三番隊12000人 4月18日金海上陸黒田長政6000人(豊前中津) 大友吉統6000人(豊後府内)
四番隊14000人 毛利吉成2000人(豊前小倉) 島津義弘10000人(大隈栗野) 高橋元種・秋月種長1000人(日向宮崎・日向高鍋) 伊東祐兵・島津忠豊1000人(日向飫肥・日向佐土原)
五番隊24700人 (四国衆)当初は来島兄弟も属す福島正則5000人(伊予今治) 戸田勝隆4000人(伊予大洲) 長宗我部元親3000人(土佐浦戸) 蜂須賀家政7200人(阿波徳島) 生駒親正5500人(讃岐高松)
六番隊15700人 4月19日釜山上陸小早川隆景10000人(筑前名島) 小早川秀包1500人(筑後久留米) 立花宗茂2500人(筑後柳川) 高橋統増800人(筑後三池) 筑紫広門900人(筑後福島)
七番隊30000人 4月19日釜山上陸 (七番までが御先衆『日本戦史朝鮮役(鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書)』)毛利輝元30000人(安芸広島)
八番隊10000人 5月2日釜山上陸宇喜多秀家10000人(備前岡山)
+α八番隊帯同諸隊9200人(軍監として八番隊に帯同し漢城に入る)石田三成2000人(近江佐和山) 当初は名護屋舟奉行増田長盛3000人(近江水口) 当初は名護屋舟奉行大谷吉継1200人(越前敦賀) 前野長康2000人(但馬出石) 加藤光泰1000人(甲斐甲府)
九番隊11500人 豊臣秀勝8000人(美濃岐阜)九月九日病没後織田秀信が継ぐ?細川忠興3500人(丹後宮津)
+α九番隊帯同諸隊13970人(主に九番隊に帯同し慶尚道南部の平定を担当)長谷川秀一5000人(越前東郷) 木村重茲3500人(越前府中) 早川長政250人(近江?) 当初は高麗舟奉行毛利高政300人(播磨明石郡?豊後日田玖珠?) 当初は高麗舟奉行亀井茲矩1000人(因幡鹿野) 糟谷武則200人(播磨加古川) 片桐且元200人(播磨?) 片桐貞隆200人(播磨?) 太田一吉120人(美濃?)(越前?) 古田重勝200人(近江日野) 新庄直頼300人(近江大津) 小野木重勝1000人(丹波福知山)平壌方面に配置か高田治忠300人(丹波何鹿郡上林?) 藤掛永勝200人(丹波氷上郡小雲?)(丹波何鹿郡上林?) 岡本良勝(宗憲)500人(伊勢亀山) 当初は名護屋舟奉行牧村利貞700人(伊勢岩出) 当初は名護屋舟奉行
釜山・漢城間の諸隊15550人(主に釜山から漢城間の要路警護と秀吉渡海時の御座所普請を担当)服部一忠800人(伊勢松坂) 当初は対馬舟奉行一柳可遊400人(伊勢桑名) 当初は壱岐舟奉行浅野幸長3000人(若狭小浜) 竹中重利300人(美濃長松) 稲葉貞通1400人(美濃郡上) 中川秀政3000人(播磨三木) 宮部長煕2000人(因幡鳥取) 垣屋恒総400人(因幡浦住) 木下重堅850人(因幡若桜) 南条元清1500人(伯耆久米郡岩倉城) 幼少の南条元忠(伯耆羽衣石)の名代斎村広道800人(但馬竹田) 別所吉治500人(但馬八木) 明石則実800人(但馬城崎)明石左近?明石守延?明石元知?[1][2][3] 谷衛友450人(丹波山家) 石川貞通350人(丹波天田郡)参考[4]
船手衆(水軍)9450人 九鬼嘉隆(志摩鳥羽)1500人 当初は対馬舟奉行堀内氏善(紀伊新宮)850人杉若伝三郎(紀伊田辺)650人桑山重勝・桑山小伝次(貞晴?)(紀伊和歌山)1000人 <文禄元年には重勝は高齢で、実際に出陣したのは嫡孫桑山小藤太(一晴)(嫡子一重は既に死去)(庶流(重勝次男)元晴も出征?)>桑山家参考[5][6] 藤堂高虎(紀伊粉河)2000人 当初は壱岐舟奉行脇坂安治(淡路洲本)1500人 当初は対馬舟奉行、続いて陸路漢城付近まで進出、次に南岸に戻り船手となる。菅野正影(淡路岩屋)250人(菅ノ正陰、菅正影、菅正陰) 『天正記』では父菅達長(菅平右衛門)参考[7] 加藤嘉明(淡路志知)1000人 当初は壱岐舟奉行来島通之・来島通総(伊予来島)700人 当初五番隊に属し7月16日付朱印状(毛利家文書之三926)で舟手に配属
朝鮮渡海勢・合計205570人 九州・四国・中国衆を主力に、東は越前・美濃・伊勢・まで 名護屋在陣勢・合計102415人 東国衆、秀吉旗本衆、豊臣秀保 総計307985人(甫庵太閤記)
※文禄2(1593)年渡海 上杉景勝5000人(越後春日山) 伊達政宗1500人(陸奥岩出山) 佐竹義宣3000人(常陸水戸)5月渡海令下り、6月渡海する。備考安国寺恵瓊
京畿の留守・30000余人 豊臣秀次・中村一氏・堀尾吉晴・池田輝政・田中吉政等『日本戦史朝鮮役』