2011年9月10日土曜日

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)

文禄の役で「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という言説が存在する(一例;日韓歴史共同研究報告書(第1期)・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」。しかし、そのような事実は存在しない。

日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐を経て対馬厳原に到り、対馬北端に位置する大浦などから釜山に着岸して荷を下ろし、その後は陸上を漢城に向かうというものだ。この補給路を朝鮮水軍が寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのものを占領奪還するしか方法はない。

しかし実際のところ李舜臣が釜山の海上封鎖を行ったことはない。それどころか釜山前洋に現れること自体殆ど無かった。閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり釜山には触れてもいなかった。たった一度だけ釜山に現れたのが文禄元年8月29日(明暦9月1日)の釜山浦の戦い(釜山浦海戦)である。そして、この戦いで李舜臣は釜山の占領奪還を狙ったが失敗し日本軍補給路を寸断することはなく退却した(詳細はtokugawaブログ: 釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討するを参照のこと)。たった一日の数時間の出来事でしかなく、このような継続性のないことでは日本軍の補給を滞らせることはできない。この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることは二度と無かった。つまり結局李舜臣が日本軍の補給路を寸断したことは無かったということだ。

実際、漢城在陣諸将が文禄2年3月3日に発した連署状には、4月11日までは漢城に兵糧があると書いた後で
釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候・・・・・
『(文禄二年)三月三日付・漢城在陣諸将連署状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書100
釜山には兵糧があることが書かれている。輸送が困難なのは、その後の陸路に山や坂があることや、川(洛東江)を遡航して輸送するにも人数不足であることが書かれている。これを見て判るように海路釜山には兵糧が運ばれていたのだ。海上補給路は妨害されていなかったのだから、それは当然のことといえる。

文禄2年4月、日本軍は補給不全の漢城を引き払い、補給を受けることが出来る朝鮮南部に再布陣するが、これにより兵糧不足は解消された。もし兵糧不足の原因が李舜臣による海上活動によるものならば、内陸奥地にいようと、南部沿岸部にいようと、無関係に兵糧不足は生じていたはずである。

これについて、ルイス・フロイスの『日本史』にも記録されているので引用する。
遊撃との間で上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ P270
このように、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことは疑いようがなく、李舜臣が日本軍の補給線を寸断したなどという状況は存在しない。

南部への再布陣により、補給を充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢を開始し、29日、朝鮮側最大の反抗拠点と目された晋州城の攻略を成し遂げることができた。この晋州城攻略作戦は文禄の役が始まって以来最大の作戦であり、9万を超える軍勢が晋州城とその周辺に投入された。この大兵力を支える補給物資が集積されていたということだ。

晋州城の攻略後、ただちに日本軍は慶尚道南部の沿海部に多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。この時期についても、ルイス・フロイスの『日本史』に記録されているので引用する。
それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・
完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ P276
今日、倭城と呼ばれるこれらの城郭には、やはり兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達しているのだ。また、この晋州城攻略作戦から倭城群構築にかけての時期に、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と渡海しており、海上交通路が安全化されていたことは確かといえる。ここでも李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという状況は存在しない。

南部の倭城群に布陣する日本軍の補給物資が充足した状況は文禄3年以降も変わらない。文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状を見てみよう。
急度被仰出候、被越置候御城米之儀、彌古米ニ不成之様、手前兵糧ニ取替召遣、具数無相違、元程可積置候、釜山浦幷かとかい(加徳島)東莱・竹島等ニ有之分、莫大之儀候條、為御奉行、福島左衛門大夫・毛利民部大輔、被仰付候、手前御城米引加、惣人数多少ニ付令割符可積替候・・・
『(文禄三年)五月二十四日付・豊臣秀吉朱印状』
日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第175
釜山・加徳島・東莱・竹島(金海)等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている。このように実際の状況は古米化を心配しなければならないほど兵糧は豊富であり、補給の断絶などとは全く逆の状況を示しているのだ。

結論として言えることは、文禄の役を通じて「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が虚構にすぎないことは明らかである。さらに「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が虚構にすぎないことは慶長の役においても同様である。これについては次の投稿・李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編) で説明する。

※2014年9月10日、ルイス・フロイスの『日本史』関連の記述を追記し、文章を再構成する。
※2014年9月17日、文禄3年以降の状況を追記。

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