慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて戦われた順天城の戦いと、一か月後に行われた順天城の日本軍に対する帰国妨害のための海上封鎖を連続した一つの出来事として語られることがある。一例をあげると韓国・慶尚南道のサイト<忠武公李舜臣> - 壬辰倭乱 - 壬辰倭乱経過 - 朝・明連合軍の反撃と終戦というページ。こうした韓国発情報の影響か、日本でも「9月19日、明・朝鮮軍によって水陸から順天城が包囲され、小西行長らは脱出不能に陥った。これを救出するため出動した島津義弘らの水軍と明・朝鮮水軍の間に11月18日露梁海戦が戦われ、翌日小西行長らは脱出することができた。」などといった具合に語られることがある。これだと2か月の間継続して順天城が包囲されていたことになるが、こんなことは全く事実に反する。
実際の経緯を述べると。水陸の明・朝鮮水軍が、小西行長らが籠城する順天倭城の攻略を目指した順天城の戦いは、慶長3年(1598年)9月19日に始まった。しかし、結局城の攻略に失敗し、10月7日に明・朝鮮陸軍が退却したのに続き、9日には明・朝鮮水軍も退却して水軍本営の古今島に帰還した。これにより城の包囲は解かれ、順天城の戦いは明・朝鮮側の敗退という形で終結した。その後一月近くの間をおいて、明・朝鮮水軍は豊臣秀吉死去に伴う日本軍帰国の情報を得、11月7日に水軍本営の古今島を出発し11月10日に順天沖の光陽湾を海上封鎖して小西行長らの帰国を妨害した。これを救出するため出動した島津義弘らの水軍と明・朝鮮水軍の間に11月18日露梁海戦が戦われ、翌日小西行長らは脱出することができた。
これらの経緯は李舜臣の著した『乱中日記』や朝鮮王朝編纂の『宣祖実録』で明確であり、本来なら議論の余地もないことである。ところが、この明・朝鮮水軍の一連の行動の内、城の攻略に失敗して帰還し、後で再度出航して海上封鎖した過程が消去された上、前後をくっ付けて語られる事態がしばしば見られるのだ。これにより、帰国を図る日本軍が2か月の間順天城に包囲され攻撃を受ける中で脱出したように捏造されている。
もう一つ注意しなければならないのは、順天城の戦いの時点での日本軍の状況は城の在番体制を固め翌年の攻勢準備を進めていたのであり、帰国を図ってはいない。豊臣秀吉は8月18日に死去しているが、当時は情報が瞬時に伝わる時代ではなく、帰国方針が現地に伝えられるのは順天城の戦いで明・朝鮮軍を撃退し包囲が解かれた後、10月に入ってからのことである(詳細は、三路の戦い #追撃ではない明・朝鮮軍による三倭城攻略作戦を参照のこと)。ところが、順天城の戦いの時点で既に日本軍が帰国を図っていたような主張がしばしば見受けられる。
先ほど例示した韓国サイトの<忠武公李舜臣> - 海戦 - 海戦戦闘 - 9次出戦ページでは出戦の次数そのものが捏造されている。ここでは順天城の戦いを無かったことにして、いきなり露梁海戦に飛び、これを9次出戦としている。しかし、実際は順天城の戦いが9次出戦であり、露梁海戦は10次出戦である。
なぜ、このような歴史捏造行為が行われるのか? それには二つの要素が大きく作用している。
一つ目の要素は、朝鮮が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に勝利したという虚構を仕立て上げるためには、戦争の最終段階まで日本軍が勝利し、朝鮮軍や明軍が敗北を重ねているという事実が極めて不都合になるため、これを隠さなければならないという事情である。慶長2年末から慶長3年始めにかけて戦われた蔚山城の戦い(第一次)で明・朝鮮軍は大敗を喫し、同年9月末から10月初めにかけて戦われた三路の戦いでも蔚山・泗川・順天、全て敗北している。このように明・朝鮮軍は戦争の最後まで連戦連敗であり、「而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録10月12日条』」という状況に陥っている。つまり朝鮮が壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に勝利したという戦争結果を成立させる余地は存在しないのである。しかし、現在の韓国でこうした状況は隠されるか歪曲されるなどして真実が語られることは少ない。また日本の研究者やメディアの中にも韓国の状況に同調するような者が存在し、これが事態を悪化させている。
二つ目の要素は、李舜臣が「23戦23勝」「無敗の名将」という神話を作り上げるためには、李舜臣が順天城攻略戦に敗退したという事実を隠さなければならないという事情である。実のところ李舜臣は、この順天城の戦いを含め、日本軍の陸上拠点に対する攻撃は殆ど不成功に終わっている。これに関しても現在の韓国でこうした事実は隠されるか歪曲されることが多いし、やはり日本の研究者やメディアの中に韓国の状況に同調するような者が存在して事態を悪化させている。
これらの二つの隠さなければならない要素が重なることにより、順天城の戦いと、一か月後に行われた順天城の日本軍に対する帰国妨害のための海上封鎖を連続した一つの出来事とする歴史捏造行為が行われるのである。このような行為はあってはならないことだ。
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