2011年10月4日火曜日

『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠

慶長の役で李舜臣率いる朝鮮水軍が鳴梁海戦で日本水軍を撃退し、全羅道西岸への進出を阻止したなどという主張がしばしば見られる。しかし、これが事実ではないことは以前からyasoshima氏が明らかにしていた。
結局のところ朝鮮水軍は海戦直後から後退を繰り返し、全羅道最北端の古群山島まで退却していることが『乱中日記』から確認できる。一方、日本水軍は鳴梁海峡を突破して全羅道西岸域に進出していることは『看羊録』や『月峯海上録』から確認できるのである。 この点について私tokugawaも朝鮮王朝の正史である『宣祖実録』を読んでyasoshima氏の説を補足することになる以下の記事を確認した。
賊船或三四隻, 或八九隻, 靈光以下諸島, 殺擄極慘, 靈光地有避亂船七隻, 無遺陷沒。

(訳)
日本軍の船が、3・4隻、或いは8・9隻の単位で霊光以南の諸島に入って(朝鮮人を)殺し捕え極めて惨い。また霊光にあった避乱船7隻も跡形もなく陥没した。
この『宣祖実録』の記事は霊光沖で日本水軍の捕虜となった朝鮮人が記した、姜沆『看羊録』や、鄭希得『月峯海上録』の記録と合致しており極めて信憑性が高い。日本水軍は鳴梁海峡を突破して少なくとも霊光沖まで進出していたことは確実といえる。


豊臣秀吉は慶長の役開始時に「赤国不残悉一篇ニ成敗申付(全羅道を、残さず、ことごとく、いっぺんに、成敗せよ)『2月21日付朱印状(立花文書他)』」と命じていたが、これは本土ばかりではなく、多島海と言われる全羅道西岸の島々に対しても行われていたことになる。まさに「赤国不残悉一篇ニ成敗」していたのだ。李舜臣以下の朝鮮水軍はこれを阻止できなかった。

鳴梁海戦について、韓国国定教科書の記述では「このとき李舜臣は倭軍を嶋梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。」とあるが、事実は全く違っている。鳴梁海戦後、後退したのは朝鮮水軍であり、前進したのが日本水軍なのだ。もちろん朝鮮水軍が制海権を握ることはなかったし、日本軍の補給を断つこともなかった(参照;李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編))。

日本水軍は全羅道西岸域を掃討した後、ここから引き上げ築城を開始するが、これは前記『2月21日付朱印状(立花文書他)』に「右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。」とあるように、全羅道成敗が完結したので、予定通り築城を行うため築城予定地に移動したのであり、これは慶長の役開始時からの方針であるヒット・アンド・アウェイ戦略に沿ったものである。

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