慶長の役では、漆川梁海戦で元均麾下の朝鮮水軍が壊滅的打撃を被った後、李舜臣が三道水軍統制使に復帰し、朝鮮水軍の指揮をとるが、以後一度も釜山近郊に現れていない。鳴梁海戦の後も李舜臣が根拠地としていた場所は全羅道西方の古今島であり、ここから長躯釜山に進出することは当時の朝鮮水軍の造船技術や航海技術では不可能なことだった。
この時代の朝鮮の軍船は(日本も同様であるが)櫓走を主として航行するため、多数の漕ぎ手が乗船しており、必ず休息と睡眠をとるために毎日停泊しなくてはならなかった。また、乗員が多いことは食糧や飲料水の消費量を増大させるが、反比例して荷の搭載スぺース少なくなる。このため艦隊は補給を受けるためにも停泊する拠点を必要とした。ところが、釜山から順天のおよそ140kmに及ぶ沿岸は日本軍の制圧下にあり、朝鮮水軍が釜山に到達することは不可能で、実際に李舜臣は一度も釜山の前洋に達していない。よって、李舜臣が日本軍の補給路を寸断することなど有り得ないことなのである。
しかし、実は朝鮮水軍が一度だけ釜山の前洋で日本軍の補給線を妨害したことがあった。それは時間を溯って慶長の役初頭の元均が三道水軍統制使だったときのことだ。このときは、文禄の役後の講和交渉の進捗で日本軍が巨済島から撤収していた影響で、慶長の役開始当初、朝鮮水軍は巨済島を停泊地にして釜山前洋に進出することが可能であった。しかし効果を挙げる間もなく元均麾下の朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍の逆襲を受け壊滅的打撃を被り、補給線妨害作戦はここに終決することになった。
この経緯は日本側記録でも確認できる。
番船唐島(巨済島)を居所に仕、日々罷出、日本通船、渡海一切不罷成ニ付而、五人之者申合、唐島へ押寄、昨日十五日夜半より、明末之刻迄相戦、番船百六拾餘艘切取其外津々浦々、十五六里の間、舟共不残焼棄申、唐人数千人海へ追いはめ、切捨申候、・・・ 七月十六日付、四奉行(前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)宛、小西行長、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、島津義弘・忠豊、連署状『征韓録』 |
慶長3年3月13日に豊臣秀吉が朝鮮在番の諸将に発した書状に、「兵糧を日本の都へ届けるよりも、その方(朝鮮)に届けるほうが容易である」とする。
兵糧之儀ハ、日本之都へ相届候よりも、其方へは輙候・・・
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