2011年9月6日火曜日

釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討する

文禄元年(1592年)8月29日、李舜臣以下の朝鮮水軍が日本軍の支配下にある釜山を攻撃した。この「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」について、参謀本部編纂『日本戦史・朝鮮役』「釜山ノ戦」では朝鮮水軍の敗退として書かれている。ところが、現在の韓国ではこの戦いが朝鮮水軍の大勝利と全く逆の扱いを受けていることが多い。そこでこの戦いの勝敗について検討してみることにする。

勝敗を検討するにあたり、まず朝鮮水軍は何のために釜山を攻めたのか、その作戦目的を知る必要があるので、各種史料を見てみよう。
八月、李舜臣進攻釜山、鹿島萬戶鄭運死之、舜臣引兵還。舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而之、賊必據。」遂進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十三 附録五 宣廟中興志
李舜臣は「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之をせば、賊(日本軍)は必ず據(拠)をう。」と宣言して釜山攻撃を始めている。

日本軍の根拠地となっている釜山に進撃して、これを覆し、日本軍の拠り所を失陥させる。それが作戦目的という。別の言い方をすれば釜山の占領が朝鮮水軍の作戦目的ということだ。

よく似た内容が『宣廟中興志』以外にも書かれている。
公與李億祺、元均、助防將丁傑等相議曰、「釜山爲賊根本。蕩其穴、則賊膽可破。」遂與進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之九 附録一 『行録』
公與元均、李億祺、丁傑等計曰、「釜山、賊之喉也。進而扼之、賊必其據。」遂進逼釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『行状』
公進撃釜山、其根・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『神道碑』領議政金堉

確かに釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であり、もしここを朝鮮水軍が占領すれば、朝鮮にいる日本軍は補給連絡を絶たれて孤立し、日本に退却することも出来ずに全滅したであろう。

さて、この戦いが終結したとき釜山は覆っただろうか? 戦いが終決したとき日本軍は釜山を失っただろうか? いや、そんな状況には全くなっていない。つまり李舜臣は作戦目的の達成に失敗したということだ。この戦いが単に船を撃沈しに行ったのではなく、釜山の占領が目的だった証拠に、兵を上陸させて陸戦が戦われている。しかし全く歯が立たず敗退した。

釜山の奪還に失敗した李舜臣であるが、彼は報告の中で100余隻という膨大な数の日本船を破壊したと主張している。これだけの大戦果を挙げたのだから、たとえ作戦目的を達成していなくても朝鮮水軍の大勝利ではないかという意見も出てくるかもしれない。しかし、このような膨大な戦果を客観的に証明するものは何もない。もちろん日本側記録でも確認できるものではない。戦史研究の一般論として、このような自称大戦果を安易に受け入れることは健全なことではなく、真偽の検討を要することだ。

戦闘後、もし李舜臣が自身の保身を望むなら、作戦失敗、即ち敗北を覆い隠す必要がでてくる。そのためには膨大な戦果がどうしても必要となってくる。100余隻という自称大戦果はそうした背景で成された報告である。こうした要素を勘案すると、やはり100余隻破壊という大戦果をそのまま受け入れることはできない。

そして、100余隻だった大戦果は後に編纂された『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)では400余隻というさらに巨大な数値に膨れ上がっている。
李舜臣等攻釜山賊屯、不克。倭兵屢敗於水戰、聚據釜山、東萊、列艦守港。舜臣與元均悉舟師進攻、賊斂兵不戰、登高放丸。水兵不能下陸、乃燒空船四百餘艘而退。鹿島萬戶鄭運居前力戰、中丸死。舜臣痛惜之。
『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条
このことから『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)の編者の立場は李舜臣を持ち上げろうという意図で書かれていることが判る。しかし、そのような編者でも、釜山の奪還に失敗したという事実を根本的に覆い隠すことはできなかったようで、釜山浦の戦いを「不克(勝てなかった)」と評価せざるをえなかった。この「不克」というのは敗北の婉曲表現である。敗北という直接的表現を使うことは李舜臣を持ち上げろうという意図を持った編者には出来なかったのだろう。

敗北に懲りたのであろうか、この戦い以後、李舜臣が釜山を攻撃することは二度と無かった。それどころか、これまで連続的に出撃を繰り返してきた李舜臣以下の朝鮮水軍は活動をパッタリと停止する。李舜臣が日本軍の補給を断つようなことは無かった。これにより釜山は安全化され、文禄・慶長の役が終決するまで日本軍の補給連絡上の根本拠点として機能し続けることとなる。

以上、ここまで見てきたとおり「釜山浦の戦い」は朝鮮水軍が敗北した戦いであることは明白だ。韓国では李舜臣を民族的英雄として崇め奉り、「23戦23勝」、「無敗の名将」と称えているが、実際のところ、それは虚構である。しかも、それは何もこの「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」に限ったことではない。「順天城の戦い」では、より明白に敗退しているし、その他日本軍の沿岸拠点への攻撃では尽く不成功に終わっている。だが、残念なことに、こうした事実が韓国で語られることはおそらく殆ど無い。韓国における歴史の評価は民族的自尊心の充足が極めて大きな要素となっており、民族的英雄である李舜臣が敗北しているという事実を受け入れることは容易ではないかもしれない。しかし、歴史は真実から目を背けることを永久に続けるならば、それはあまりにも非文明的行為と言わざるを得ない。

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