2011年4月24日日曜日

水軍拠点を本土や大きな島に置くことを好まなかった李舜臣

李舜臣の水軍拠点について。
文禄・慶長の役が始まる前、朝鮮王朝は水軍の拠点を本土や大きな島に設置していた。主要な拠点は以下の通り。

慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻
※水使=水軍節度使=水軍司令官
板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当 

 これらの水軍拠点は何れも水路の要衝に位置しており水軍の出撃や水路の抑えとして好位置である。しかし、李舜臣はこうした朝鮮本土や巨済島のような大きな島の拠点を好まなかった。文禄の役で(文禄2年7月14日)閑山島に、慶長の役でも古今島に本営を移した。この二つの島は何れも小島である。

このような小島に本営を置く理由は日本軍による陸上からの攻撃を恐れてのことと思われる。本土の拠点は日本軍から陸伝いに侵攻を受ける恐れがあるし、島に置かれた拠点でも島が大きいと離れた位置に上陸してから陸伝いに侵攻を受ける恐れがある。

李舜臣は陸上で日本軍と戦うことには自信がなかったようだが、船同士で戦う船戦には自信を持っていた。朝鮮の水軍基地である水営は低くて簡素な城壁を周囲に廻らす程度のもので、決して堅固な構造ではなく、陸から日本軍の攻撃を受けたならば防衛は困難だ。小島に拠点を置いておけば、日本軍が侵攻するなら必ず船で海上からやってくることになり、水上戦で迎撃することが出来きるということだ。