2011年4月16日土曜日

順天城の戦いで明将劉綎が総攻撃失敗の後、攻撃を停止した理由

(参照→三路の戦い - “真相” 文禄・慶長の役
慶長3(1598年)9月19日から10月7日にかけて、明・朝鮮軍が小西行長の守る順天倭城を攻撃した。この順天城の戦いは東アジアにおける当時最先端の水陸の軍事技術、攻城・守城術が駆使された興味深い戦いであるが、この時の明・朝鮮の陸軍総司令官である劉綎の行動に疑問が浮かび上がる。

この戦いでは10月2日の総攻撃失敗の後、明の陸軍を率いる劉綎は攻撃を停止し、水軍のみが攻城を継続する結果となっている。水陸共同の攻城は劉綎の提案によるものであるにも係らずである。何故か?

それは、陸からの倭城攻撃が損害を出すばかりで成功の見込みが無く手詰まり感を感じるようになったからであろう。ただし、水軍による海からの攻撃には成功の可能性ありと希望を見出していたからではなかろうか。

遡って前年の慶長2(1597年)12月22日から翌慶長3年(1598年)1月4日にかけて戦われた蔚山城の戦いにおいても攻城戦で城内からの鉄砲の射撃により明・朝鮮軍は膨大な損害を出して攻城に失敗している。(参照→蔚山戦役 - “真相” 文禄・慶長の役) この時、攻城具なしで攻めかかったことが膨大な損害と攻城失敗の原因であると明・朝鮮側は認識したようだ。

この戦訓を取り入れて、順天城の戦いでは、劉綎は一時攻城を中断してまで雲梯、飛楼、防車、防牌等の攻城具を制作し、10月2日万全の態勢を整え順天城の惣構(外郭部)に攻めかかった。しかし、またもや城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃は激しく、結局多くの死傷者を出して攻撃は失敗している。攻城具の防御力もせいぜい小銃弾程度が限界で、大口径の火器に対しては十分な効力が無かったのではなかろうか。また日本軍は出撃戦術も併用して攻城具を焼き払い、明・朝鮮兵を白兵戦で撃攘している。劉綎にしてみれば万事休すといったところで、手詰まり感を感じざるを得ないだろう。

もし何らかの可能性を見出すなら、それは水軍による海上からの攻撃しかあるまい。順天城の遺構を見る限り陸側の外郭は石垣で固められた防壁が守りを固めており、突破することは困難である。それに対し、海側に目を転じてみると、石垣の防壁はなく海側防御は陸側よりも弱いことが判る。もし水軍が海側から惣曲輪内に侵入することに成功すれば、その時、陸側からも呼応して城内に雪崩れ込むと、惣構(外郭部)の防衛ラインを突破することが出来るはずである。劉綎は水軍による城内侵入成功を待って模様眺めしていたのであろう。

しかし、水軍の攻撃も成功せず、劉綎はただ傍観を続けるだけとなった。こうした状況で明水軍を率いる陳璘や、朝鮮水軍を率いる李舜臣は、水軍にのみ戦いを強いて自らは動こうとしない劉綎に対し憤怒の念を抱いている。

結局、陸からも海からも攻城成功の可能性がないことが判り、更に悪いことに泗川城を攻撃していた中路軍が島津軍に大敗したニュースが飛び込んでくると、もはや長居は無用とばかりに明・朝鮮軍は退却していった。

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