2010年12月27日月曜日

(旧版)朝鮮全土の平定を目指して

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上陸から20日あまりで李氏朝鮮の王都である漢城が陥落すると、日本の諸将は漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる朝鮮八道の平定作戦を定め、漢城を出陣していった。

  • 平安道 一番隊 小西行長等
  • 咸鏡道 二番隊 加藤清正等
  • 黄海道 三番隊 黒田長政等
  • 江原道 四番隊 森吉成等
  • 忠清道 五番隊 福島正則等
  • 全羅道 六番隊 小早川隆景等
  • 慶尚道 七番隊 毛利輝元等
  • 京畿道 八番隊 宇喜多秀家等
一番隊・二番隊・三番隊は共同して、5月11日に北に向かって進撃を開始し、5月18日に臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を撃破(事前に交渉し仮道入明を要求)。5月27日に開城占領、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と占領。進撃を続ける日本軍が平壌に迫ると朝鮮国王宣祖は遼東との国境で鴨緑江に面した義州へと逃亡し、明に救援を要請する。

平安道に進んだ一番隊・二番隊は、6月8日に大同江の畔に到達。平壌には左議政尹斗寿・都元帥金命元ら10000人の朝鮮軍が防衛体制を整えていた。ここで小西・宗は朝鮮側に和平交渉を呼びかけ「日本は朝鮮と戦うつもりはなく、願いは仮道入明である」と伝えたが朝鮮側は応じず、12日朝鮮軍は大同江を渡り夜襲を敢行し宗軍に犠牲が出た。14日朝鮮軍は再度夜襲をかけ、不意打ちを受けた小西・宗の軍は混乱したが、黒田長政が救援に駆けつけると形勢は逆転した。敗走する朝鮮兵が王城灘から大同江の浅瀬を通って平壌に逃げ込むのをみて渡河可能点を知ると王城灘を占領し攻撃態勢を整えた。15日夜、尹斗寿や金命元は平壌の防衛は困難と判断し市民を脱出させた後平壌から撤退する。16日、日本軍は大同江を渡って平壌を占領し、ここで進撃を停止した。

開城占領まで行動を共にしていた二番隊は咸鏡道方面へ進路を転じ、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り咸鏡道を平定した。当地の朝鮮人鞠世弼や鞠景仁は朝鮮王朝に反旗を翻し、臨海君・順和君の二王子を捕らえて日本軍に帰順する。さらに加藤清正は朝鮮東北国境の豆満江を越えて女真族の地オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。
四番隊は金化において助防将元豪を敗死させ江原道を完全制圧した。

(旧版)上陸開始から漢城占領まで

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天正20年(1592年)4月12日、先陣の一番隊は対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸した。釜山には1000人の朝鮮軍が守っており、小西・宗は仮道入明を要求するが朝鮮側は応じず、翌13日に総攻撃をかけて攻略した(釜山鎮の戦い・鄭撥戦死)。釜山陥落をみた慶尚左水師朴泓は左水営と配下の水軍を捨て逃亡。4月14日に東莱に対し仮道入明を要求し朝鮮側は応じず攻略した(東莱城の戦い・宋象賢戦死)。4月15日に機張、左水営占領、4月17日に梁山に入ると鵲院の隘路で密陽府使朴晋の軍を一蹴し、4月18日に密陽、その後に大邱、仁同、善山を次々と占領する。朝鮮朝廷は李鎰を慶尚道巡辺使として4000の兵を授けて派遣する。尚州周辺で民衆を徴募した兵と合わせて6000。これを4月24日に尚州郊外で撃破(尚州の戦い李鎰敗走)。4月27日に慶尚道から鳥嶺を越え忠清道へ進軍、弾琴台の戦いで迎撃に出た申リツ率いる8000の朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進み5月1日に麗州占領後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌5月3日には首都漢城に入城、後続諸隊も続々と漢城に入った。
秀吉の元に緒戦の勝報が届くと、秀吉は出征諸将の戦功を賞賛するとともに、占領地において、放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲を禁止、逃散した民衆の郷里に還往する者への米銭等の賦課を禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと、捕獲した男女があればこれを放還すべきこと、等を命じた。『鍋島家文書』『毛利家文書』『紀州徳川家文書』

朝鮮国王宣祖は日本軍が漢城に入城する前に逃亡しており、朝鮮王朝の圧政に苦しんでいた民衆は、国王の脱出と同時に、景福宮、昌徳宮、昌慶宮の三王宮、官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし火を放っていた。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。(王宮が日本軍入城以前に放火されていたことは日本側記録にもあり。吉見家朝鮮陣日記 吉野日記(松浦家臣吉野甚五左衛門記))

(旧版)出兵準備

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天正19(1591)年1月20日、秀吉は全国に造船命令を発する。
  • 一、海に面した国々は東は常陸から、北は秋田から、それぞれ九州まで、石高10万石について大船二艘を用意すること。
  • 一、直轄領は10万石について大船三艘、中船五艘を作る。
  • 一、水手(船員)は浦ごとに100軒について10人を出す。
12月5日山内一豊(遠江掛川)松下吉綱(遠江頭蛇寺)に命じ、大井川河口にて建造中の船舶は、長さ19間だったのを18間に改め、幅は依然6間とする。日本戦史40
また同年、秀吉は出兵の本拠地として肥前国名護屋城(佐賀県鎮西町)を、朝鮮半島への中継地として壱岐島風本に勝本城、対馬府中に清水山城、釜山を望む対馬北端大浦の撃方山に撃方山城の建設を始め、出兵開始までに完成させた。
舟奉行(文禄の役初期に渡海軍を円滑に輸送する役割)
  • 高麗舟奉行・・・早川長政、毛利高政、毛利重政。
  • 対馬舟奉行・・・服部一忠、九鬼嘉隆、脇坂安治。
  • 壱岐舟奉行・・・一柳可遊、加藤嘉明、藤堂高虎。
  • 名護屋舟奉行・・・石田三成、大谷吉継、岡本宗憲、牧村政治。『 鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書』
(後に戦局の進展に伴い服部は釜山に移り、九鬼・脇坂・加藤・藤堂は水軍を専管する。)
  今次の出征は船舶甚だ肝要なれば多数に準備したるをその功とし、諸部隊の船舶を録上して之を船奉行に交付しその指図を受けて逐次渡海すべく朝鮮の地に上陸をしたならば、各隊の船舶には自家の奉行一人づつを附し対馬に送還し後続部隊を乗船せしむべし。『日本戦史 毛利家文書』
正月5日、在京の諸将に国に就て征外の準備を為さしめ、加藤清正に題目(南無妙法蓮華経)の旗、小西行長に良馬を賜う。この2人は年来征外の先鋒を希望していた。『日本戦史41』 秀吉、在陣地の地下人・百姓等の逃散を禁止し、押買押売および乱暴狼藉の連中は「一銭切(銭一文を奪っても死罪に処する)」にすべきこと。また、その他の法度に対する違反者も厳罰に処することを通達。『毛利家文書』
日本軍の編成
出兵を前に、九州・四国・中国地方の大名を主力とした以下の戦闘序列が定められた。
一番隊18700人 4月12日釜山上陸 翌日攻略小西行長7000人(肥後宇土) 宗義智5000人(対馬府中) 松浦鎮信3000人(肥前平戸) 有馬晴信2000人(肥前日野江) 大村喜前1000人(肥前大村) 五島純玄700人(肥前福江)
二番隊20800人 4月17日釜山上陸加藤清正8000人(肥後隈本) 波多信時2000人(肥前貴志岳) 鍋島直茂10000人(肥前佐賀) 相良頼房800人(肥後人吉)
三番隊12000人 4月18日金海上陸黒田長政6000人(豊前中津) 大友吉統6000人(豊後府内)
四番隊14000人 毛利吉成2000人(豊前小倉) 島津義弘10000人(大隈栗野) 高橋元種・秋月種長1000人(日向宮崎・日向高鍋) 伊東祐兵・島津忠豊1000人(日向飫肥・日向佐土原)
五番隊24700人 (四国衆)当初は来島兄弟も属す福島正則5000人(伊予今治) 戸田勝隆4000人(伊予大洲) 長宗我部元親3000人(土佐浦戸) 蜂須賀家政7200人(阿波徳島) 生駒親正5500人(讃岐高松)
六番隊15700人 4月19日釜山上陸小早川隆景10000人(筑前名島) 小早川秀包1500人(筑後久留米) 立花宗茂2500人(筑後柳川) 高橋統増800人(筑後三池) 筑紫広門900人(筑後福島)
七番隊30000人 4月19日釜山上陸 (七番までが御先衆『日本戦史朝鮮役(鍋島侯爵家所蔵文書・高木貞元所蔵文書)』)毛利輝元30000人(安芸広島)
八番隊10000人 5月2日釜山上陸宇喜多秀家10000人(備前岡山)
+α八番隊帯同諸隊9200人(軍監として八番隊に帯同し漢城に入る)石田三成2000人(近江佐和山) 当初は名護屋舟奉行増田長盛3000人(近江水口) 当初は名護屋舟奉行大谷吉継1200人(越前敦賀) 前野長康2000人(但馬出石) 加藤光泰1000人(甲斐甲府)
九番隊11500人 豊臣秀勝8000人(美濃岐阜)九月九日病没後織田秀信が継ぐ?細川忠興3500人(丹後宮津)
+α九番隊帯同諸隊13970人(主に九番隊に帯同し慶尚道南部の平定を担当)長谷川秀一5000人(越前東郷) 木村重茲3500人(越前府中) 早川長政250人(近江?) 当初は高麗舟奉行毛利高政300人(播磨明石郡?豊後日田玖珠?) 当初は高麗舟奉行亀井茲矩1000人(因幡鹿野) 糟谷武則200人(播磨加古川) 片桐且元200人(播磨?) 片桐貞隆200人(播磨?) 太田一吉120人(美濃?)(越前?) 古田重勝200人(近江日野) 新庄直頼300人(近江大津) 小野木重勝1000人(丹波福知山)平壌方面に配置か高田治忠300人(丹波何鹿郡上林?) 藤掛永勝200人(丹波氷上郡小雲?)(丹波何鹿郡上林?) 岡本良勝(宗憲)500人(伊勢亀山) 当初は名護屋舟奉行牧村利貞700人(伊勢岩出) 当初は名護屋舟奉行
釜山・漢城間の諸隊15550人(主に釜山から漢城間の要路警護と秀吉渡海時の御座所普請を担当)服部一忠800人(伊勢松坂) 当初は対馬舟奉行一柳可遊400人(伊勢桑名) 当初は壱岐舟奉行浅野幸長3000人(若狭小浜) 竹中重利300人(美濃長松) 稲葉貞通1400人(美濃郡上) 中川秀政3000人(播磨三木) 宮部長煕2000人(因幡鳥取) 垣屋恒総400人(因幡浦住) 木下重堅850人(因幡若桜) 南条元清1500人(伯耆久米郡岩倉城) 幼少の南条元忠(伯耆羽衣石)の名代斎村広道800人(但馬竹田) 別所吉治500人(但馬八木) 明石則実800人(但馬城崎)明石左近?明石守延?明石元知?[1][2][3] 谷衛友450人(丹波山家) 石川貞通350人(丹波天田郡)参考[4]
船手衆(水軍)9450人 九鬼嘉隆(志摩鳥羽)1500人 当初は対馬舟奉行堀内氏善(紀伊新宮)850人杉若伝三郎(紀伊田辺)650人桑山重勝・桑山小伝次(貞晴?)(紀伊和歌山)1000人 <文禄元年には重勝は高齢で、実際に出陣したのは嫡孫桑山小藤太(一晴)(嫡子一重は既に死去)(庶流(重勝次男)元晴も出征?)>桑山家参考[5][6] 藤堂高虎(紀伊粉河)2000人 当初は壱岐舟奉行脇坂安治(淡路洲本)1500人 当初は対馬舟奉行、続いて陸路漢城付近まで進出、次に南岸に戻り船手となる。菅野正影(淡路岩屋)250人(菅ノ正陰、菅正影、菅正陰) 『天正記』では父菅達長(菅平右衛門)参考[7] 加藤嘉明(淡路志知)1000人 当初は壱岐舟奉行来島通之・来島通総(伊予来島)700人 当初五番隊に属し7月16日付朱印状(毛利家文書之三926)で舟手に配属
朝鮮渡海勢・合計205570人 九州・四国・中国衆を主力に、東は越前・美濃・伊勢・まで 名護屋在陣勢・合計102415人 東国衆、秀吉旗本衆、豊臣秀保 総計307985人(甫庵太閤記)
※文禄2(1593)年渡海 上杉景勝5000人(越後春日山) 伊達政宗1500人(陸奥岩出山) 佐竹義宣3000人(常陸水戸)5月渡海令下り、6月渡海する。備考安国寺恵瓊
京畿の留守・30000余人 豊臣秀次・中村一氏・堀尾吉晴・池田輝政・田中吉政等『日本戦史朝鮮役』

(旧版)朝鮮の国防策

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朝鮮では北方国境地帯における女真族との状態的な紛争に対処するため有望な武将は北方国境地帯に配置されていたが、秀吉軍の侵入に備えて慶尚道・全羅道・忠清道に諸将を配置転換し、特に慶尚道永川・清道・三嘉・大邱・星州・釜山・東莱・安東・尚州の兵営と城砦に増改築が加えられ、日本に近い沿岸各道の水営(水軍)には水師(水軍司令官)として有望な人材を配置した。このうちの全羅左水師に抜擢されたのが李舜臣で、1591年2月13日のことである。1591年6月には宗義智自ら釜山を訪れ、秀吉の征明戦争が近日決行されることを警告。また、文禄の役開始約6ヶ月前の1591年10月24日には、朝鮮は明に対し「(朝鮮は)沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。日本から侵犯を受ければ撃滅いたします。朝廷(明)も警戒してください。」といった旨の上奏文を携えた使節を送っている。(『簡易集』巻1「辛卯奏」)

朝鮮水軍の配置
慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻

※板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当(板屋船の隻数は金在瑾『亀船』に掲載された推定値。)

(旧版)朝鮮との交渉

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明の征服とアジア諸国の服属を企図していた豊臣秀吉は、1587年九州征伐に際し、臣従した対馬の領主宗氏に「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を実現させるよう命じた。

交渉に当たった対馬の宗氏は、これを何とか穏便に済まそうとして、秀吉が求める「朝貢使」の派遣を秀吉の全国統一を祝う「祝賀使」の派遣にすり替えて要請すると、朝鮮としても日本側の状況を探りたい事情もあり1590年使節を派遣した「賊探使」。

もっとも朝鮮側にしてみれば使節は表向きが「祝賀使」であり、実態は「賊探使」であり、秀吉に対して「朝貢」したつもりも「服属」したつもりも無かったのだが、この朝鮮使節を宗氏は「朝貢使」と称して秀吉に謁見させた。これは秀吉からしてみると、朝鮮が要求に応じ「朝貢使」を派遣し「服属」してきたことになり、以前からの要求通り朝鮮に対し征明の先導(征明嚮導)を命じた。

ここで困窮したのは虚偽の報告をしていた宗氏で、思案の末、朝鮮には秀吉の要求を「途(みち)を仮(か)す」(假途入明)とすり替えて要請したが、建国以来明に服属する朝鮮は(征明嚮導)であれ(假途入明)であれ、要求には応じなかった。これは秀吉にしてみれば朝鮮が「服属」の誓約に違反したことになる。このためまず朝鮮を制圧し、然る後に明に攻め入る方針を定めた。

朝鮮では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。

(旧版)征明構想の萌芽

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日本に於ける征明構想は何時芽生えたのだろうか?
秀吉の主君織田信長は天下統一の目処がたった1582年(天正10)イエズス会宣教師に向かって「毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後、一大艦隊を編成して支那を征服し、諸国をその子達に分ち与へん」と宣告している(『イエズス会日本年報』)。同様の征明構想を秀吉に対しても語っていた可能性は十分に考えられる。本能寺の変の後、信長の後継者となった秀吉は信長の天下統一事業と共に征明構想をも受け継いだといえる。
秀吉自身の征明構想について現存する史料上確実なものは、紀伊・四国を平定し関白となった1585年(天正13年)、家臣一柳末安に宛てた書状の中で「日本国は申すに及ばず唐国まで仰せ付けられ候、心に候か。」(伊予小松一柳文書)と記録されているのが最初のものである。
1586年(天正14)には日本イエズス会の副管区長ガスパール・コエリョらに「日本を統治することが実現したらならば、日本は弟の秀長に譲り、自分は朝鮮と支那を征服することに専念したい(『イエズス会日本年報』)と告げている。
文禄・慶長の役について、何故このような外征を行ったのか? これについて、それほど複雑な理由説明の必要があるとは思わない。海を渡って戦争に勝利し、より広大な領土を手に入れ、より多くの人民を支配し、より多くの富を手に入れ、より強大な軍隊を麾下に置き、これにより名声を手に入れ、名を後世に残すためである。世界史的に見ると、武力によって自国や自地域を統一した政権が、更に外に向かって拡張を図ることは全く珍しいことではない。ギリシャを統一したアレクサンドロス3世、モンゴルを統一したチンギス・カン、満州を統一したヌルハチ、中央アジアを統一したティムール、イタリア半島を統一したローマ帝国、中東を統一したアケメネス朝ペルシャ等、例を挙げれば枚挙に暇がない。武力によって力と名声を手に入れてきた指導者にとっては、これらの行為は名誉なことであり、自らの名を歴史に残すことを可能とする行為である。織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、日本国内でも武力によって力と名声を手に入れてきたし、自国統一を成し遂げた後に、さらに多くの力と名声を手に入れるために外征を開始することは何ら不思議なことではない。特に当時はスペイン等のヨーロッパ諸国が大洋を超えて遥か遠隔地に対して征服活動を行っており、このことを信長も秀吉も知らないはずはなく、ならば日本から対馬海峡を越えて征服活動を行うことが、それほど困難なことではないと考えたとしても何も不思議なことではない