日韓の親族 感謝の再開果たす asahi.com2012年02月18日
洪浩然は、第2次晋州城の戦いのあった1593年に、鍋島直茂(佐賀藩祖)軍に捕らえられて佐賀に連行された。当時、少年だったが、初代佐賀藩主勝茂らに仕えて書家として活躍。勝茂が没すると「忍 忍則心之宝 不忍身之殃(わざわい)」(忍ぶはすなわち心の宝、忍ばざるは身のわざわい)と、子孫への遺訓を揮毫(き・ごう)して追い腹を切った。
洪浩然韓国の子孫が来日 (2012年2月18日 読売新聞)
洪浩然は、佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂に仕え、書家のほか、藩主の書状を代筆する書記官「右筆(ゆうひつ)」として活躍。勝茂が亡くなった際、佐賀市の阿弥陀(あみだ)寺で追い腹(殉死)したことで知られる。書は、文字の書き出しと止めが力強い独特の書風で、追い腹の直前に子どもたちへ遺訓として書いた「忍」が有名だ。
テーマ展「洪浩然とその家系」:日韓両洪家の子孫が再会 県重文など50点を展示--名護屋城博物館 /佐賀 毎日新聞 2012年2月18日 地方版
洪浩然は、文禄の役(1592~93)で佐賀城主鍋島直茂の軍に12歳で捕らえられ、佐賀で藩主の右筆や書家として活躍した。
洪浩然という朝鮮人が、第2次晋州城の戦いの時、12歳で鍋島直茂の軍に捕えられ、初代佐賀藩主勝茂らに仕えて書家として活躍。勝茂が亡くなった際、追い腹(殉死)して果てたという。
もし彼が日本で劣悪な待遇を受けていたなら、このように後追い死を選ぶことは無かっただろう。12歳という年齢を考えると捕えられたとき特別な技能を持っていたわけではないはずで、書の腕前も来日してから磨かれたものと考えられる。つまり、特別な技能を持っていたわけでもない少年が、日本で良好な教育を受け著名な書家にまで上り詰めることができたということになる。そして主君の鍋島直茂と後継者の勝茂に対しては追い腹を切って死を選ぶほどの固い忠誠心を抱くに至っている。
同じく文禄・慶長の役で鍋島直茂によって日本に連れてこられ、有田焼を起こした陶工の李参平は、死後陶山神社で神として祀られるという最大級の厚遇を受けることとなった。こうした厚遇は洪浩然の例をみると、李参平が陶工という特殊技能を有していたために特別であったわけではないようだ。
加藤清正の捕虜となった人物では、まず余大男を挙げることができる。13歳の少年であった余大男は文禄の役の際捕虜となり、来日後は京都の五山で修業を受けさせてもらっている。これは当時最高級の英才教育であり、絶大な厚遇を受けていたといえる。修業後の余大男は日遥上人と呼ばれるようにまでなることができた。
次に良甫鑑(金官)がいる。朝鮮王子の小侍郎であった良甫鑑は加藤清正に従い咸鏡道の案内役を務め、加藤清正の近習として忠義を尽くし200石を与えられた。清正が没すると後を追って自害している。
後に来日した朝鮮通信使が朝鮮人捕虜の送還を求めた際、捕虜となった人々の多くが帰りたがらなかったという。捕虜達が必ずしも不遇であったわけではないようだ。
現在、文禄・慶長の役における朝鮮人捕虜について、過酷な待遇を受けていたような暗黒イメージで語られることが多い。しかし、これらの例を見る限り、こうした暗黒イメージで語ることについて修正の必要があるのではないか。