『島津家文書 二‐九七八』には慶長四年に大軍を再派兵して攻勢作戦を実施することが書かれている。これが実際に起こっていたらどうなっていたか? 仮定の話になるので断定的なことは言えない。しかしある程度の状況分析は可能なので色々と検討してみることにする。
明・朝鮮側は慶長二年に全羅道・忠清道を打破された挙句(参照,慶長の役戦略,全羅道への進撃,全羅道・忠清道掃討)、反撃に出た蔚山で惨敗し(参照,蔚山戦役)、再挙して挑んだ慶長三年9月から10月にかけての三路の戦いでも倭城守備軍の九州勢のみから成る日本軍に惨敗を喫し(参照,三路の戦い)「而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録十月十二日条』」といった具合で、兵力の損失と士気の低下は覆いようもなかった。
逆に勝利した日本軍では朝鮮駐留軍即ち九州勢は意気軒昂であろうし、これに国内でリフレッシュされた再派遣軍が加われば士気やコンディション更には兵力の面で日本軍側が優位といえる。
この当時、国土で戦争が続いた李氏朝鮮は、極度に疲弊していた。
- 全国の人口は戦前の六分の一か七分の一にまで減少。
- 戦後の耕地面積は戦前の170万8千余結(1結は一等田で約1ヘクタール、六等田で約4ヘクタール)から54万1千余結と三分の一に減少。
- 首都漢城の戸数は戦前の8,9万戸から4万戸に減少。
貫井正之『歴群35 文禄・慶長の役 P59(1598年12月~1607年1月 - 朝鮮・日本)』
- 戦争直前の田地総面積170万8千余結が、戦後には30余万結と五分の一以下に激減し、戦前の全羅道一道にも及ばず。
愛宕松男・寺田隆信 『中国の歴史6』 講談社
このことから朝鮮の戦争遂行能力が大きく低下していたことは明らかだ。もちろんこのことは明軍への兵站供給能力の低下をも意味する。もう一つ、日本軍の動員範囲について検討してみる。実施された慶長二年の役の動員は限定的範囲に限られており、九州・四国の全域と、中国地方では毛利と宇喜多で山陰の大名は動員されていなかったようだ。近畿では淡路・紀伊まで、以上に過ぎなかった。総兵力は14万余である。一方、幻に終わった慶長四年の役の動員範囲を検討すると、『島津家文書 二‐九七八』に慶長四年の役の大将として指名されているのは福島正則・石田三成・増田長盛の三名である。 注目すべきは三名の領地で、福島が尾張清州・石田が近江佐和山・増田が大和郡山であり、これで彼らが畿内から濃尾平野にかけての領主であることがわかる。とすれば、この三名だけでなく他の畿内から濃尾平野の大名にも動員がかけられていた可能性が高く慶長二年の役よりも広い範囲となる。この場合、日本軍の総兵力は慶長二年の役の14万余よりも多くなるのは間違いない。明・朝鮮軍が三路の戦いで動員した兵力は11万余であり、これが三路の敗戦で損耗されているため、兵力面での日本軍優位が判る。
更に明・朝鮮側にとって悪いことに満州方面で建州女真のヌルハチが暴れだしているという事情がある。慶長3年(1598年)の12月には、ヌルハチが開元・瀋陽・遼東・鴨綠以西を搶掠しようとしたため、経略邢玠は遊撃李芳春・牛伯英らの軍勢を朝鮮から引き上げて防備させなければならない事態になっている(宣祖実録・宣祖31年12月甲子・乙丑)。もはや対日戦争に注力できない状況にあったといえる。
これらの事情から、もし慶長四年の役が実施されていたらどうなっていたかを総合的に検討してみると日本軍側に分があると私はみる。 いずれにせよ慶長三年秋頃には、朝鮮国内における明軍の兵力は文禄の役時よりも大きく上回っていた。もし戦争が継続していたなら慶長四年が大軍同士がぶつかり合う決戦の年になていたであろう。
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