「鳴梁海戦で朝鮮水軍が日本水軍を撃退した」、「鳴梁海戦で朝鮮水軍が制海権を握った」、「日本軍の補給を断った」などといった言説が虚構であることが視覚的に理解しやすいように地図で表してみた。
鳴梁海戦で退いたのは朝鮮水軍であって、日本水軍は前進を続け全羅道の海上を掃討している実態が明らかであろう。
慶長の役における日本軍の主要戦略目標は全羅道の成敗であり(『慶長二年二月二十一日付朱印状』)、この内日本水軍が担当した目標は咸平と務安であった(朝鮮国全羅道ニ而之書物八ツ『鍋島家文書133号』)。務安は勿論のこと咸平を超えて霊光にまで進出していることが複数の史料によって確認できる。日本水軍は十二分に目標を達成しているといえる。結局のところ李舜臣の朝鮮水軍はこうした日本水軍の侵攻を防ぐことができず、全羅道北端まで後退し、ただ指をくわえていているだけであった。これが鳴梁海戦の実態である。
同時期に日本の陸軍部隊も全羅道を北から南へと掃討を続けており、水軍と合わせて全羅道を水陸共にことごとく成敗し、慶長の役の戦略目標を完全に達成している。全羅道成敗達成後の次なる目標は沿岸部の倭城群の構築である。このため水陸の日本軍は築城予定地に移動して築城を開始することになる。
ここで注意しなくてはならないのは「慶長の役の戦略目標が朝鮮の南四道の領土的確保である」という誤った言説である。実際は慶長の役開始時点から進出先に留まって領土的確保をする意図はなくヒット・アンド・アウェイの要領で進攻して打撃を与えた後、沿岸部に引き上げて倭城群を構築することが決まっていたのである。(詳細は→“真相”文禄・慶長の役,慶長の役戦略)
鳴梁海戦関係で当ブログ内で参照していただきたい記事
鳴梁海戦,日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』
『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
管理人HP“真相”文禄・慶長の役内で参照していただきたい記事
慶長の役戦略
全羅道・忠清道掃討