慶長2(1597)年、慶長の役が本格的に始まり、7月の内には日本軍の主力が渡海を終えた。この頃、航路を妨害した朝鮮水軍に対し、日本水軍が決戦を挑み、7月15日漆川梁海戦(巨済島海戦)で朝鮮水軍を撃滅する。この戦闘報告は16日に第一報が発せられた。(8月9日、伏見の豊臣秀吉の元に達する)
これに続き23日、藤堂高虎は藤堂勢の一番乗りを証明する目付衆の書状や、藤堂勢の活躍を詳細に記した書状を藤堂太郎左衛門(重政)に持たせ、伏見の豊臣秀吉や奉行衆の元に派遣した。
8月21日、京都伏見にて藤堂太郎左衛門を引見した豊臣秀吉が返報として朱印状を発給し、これに奉行衆の増田長盛が添状を添付した。この増田長盛の添状は詳細で重要であり、ここで検討して行きたいので、まず翻刻文と訳文を記載する。
『(慶長二年)八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』(同日付、豊臣秀吉朱印状の添状)
翻刻文(『高山公実録』収録のものに句読点を付加)
御同太郎左衛門被差越、御注進之趣具遂披露候。
一 今度番船被伐捕候儀、貴所行にて可有之由、此中御錠候処如御推量、一番ニ被伐捕、即被切崩候通各墨付、懸御目候、御感不斜候。
一 赤国働相澄候て、各在城之所、御仕置之段、御書中之通、具披露申候。其表之義、不被成御覧所候条、何様ニも各見斗、可然様ニ可申付旨、御意候。則被成御朱印候最前御意之所よりも取出候而、可然候ハヽ、其通尤候由、御意候。乍去、面々居城之所、互ニ恣ニ被申候而、相済間敷と存候間、早々以絵図、被仰上可然候ハん哉。其段も、おそく成可申候条、唐嶋を対馬守ニ被下候上者、彼年寄ちんしゆ辺ニ成共、小摂被置、其外はくし取も可然候ハん哉。
一 各取々御注進被申候へ共、一分ニ而之御注進状ハ正ニさせられす候。今度之調儀、貴所・小摂・脇中・福右馬・熊内蔵・垣和泉・なと被申上候通、一段と被聞召入候。
一 御同太郎左衛門、御前江被召出、御腰物拝領、無比類仕合候。併貴所於其表御手柄故候。
一 宮内少・藤仁右、自身番船被伐捕書付、具被 聞召候。於我等大慶此事。
一 此方御前珍敷儀無之候。自然大明仁罷出候者、先年無御渡海候事尓、今御無念ニ被思召候条、一揆懸ニ可被成御渡海旨にて、名護屋迄之間御泊ニ、早舟・御馬なと被為置候。
一 貴所此方御屋舖、大形らちあき候付きて、先日絵図を仕進し候。猶具ニ太郎左衛門方へ申渡候。恐々謹言。
八月廿一日
長盛花押
藤堂佐渡守殿
御返報
訳文
藤堂太郎左衛門(重政)が派遣されてきて、報告にある経緯を詳しく(太閤様に)披露されました。
一
このたびの敵水軍撃破について、貴方の活躍によるものであることが、この中で認定されましたところは御期待のとおりで、一番に敵を討ち捕え、切り崩されました各々のお墨付きを、目に留められ、甚だしく感心されていました。
一
全羅道進攻任務が完了した後に、諸将が在番する城の築城予定地と、統治体制について、書状の中に記された通り、詳しく披露しました。そちら方面で、(築城予定地が書状の中に)記載されていない所であっても、どのようにでも諸将が検討して、適正に処置することは、御意であります。即ち御朱印状による認可を受けた最初に決められた所よりも張り出した地に、築城したほうがよいということならば、その通り尤もなことであり、御意であります。しかしながら、諸将が居城の場所を、それぞれ勝手気ままに主張しあったならば、収集のつかないことになると思いますので、早めに絵図に書いて提出しておくのがよいでしょう。その場合も、遅くなるというならば、唐嶋(巨済島)が対馬守(宗義智)に下賜される上は、彼の年寄(氏名不詳)が晋州辺り(泗川)になっていますが、そこには小西行長を配置し、その他はくじ引きで決めてもよいでしょう。
一
諸将が個々に報告を上げていますが、個別の報告書は正式なものとは認められません。このたびの審議では、貴方・小西行長・脇坂安治・福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・等が申し上げられた通りを、ひときわお聞き入りになっていました。
一
藤堂太郎左衛門を、御前へ召し出されて、御褒美の刀を拝領したことは、比類の無い出来事です。これも貴方の朝鮮における御手柄によるものです。
一
藤堂高吉や藤堂高刑が自ら敵船を討ち捕えた書状について、詳しく聞いておられました。これは我等にとっても大いなる喜びです。
一
こちらは太閤様の近辺で特別なことは起こっていません。もし明軍が出撃してきたならば、先年に渡海(文禄年間の朝鮮渡海)が実現しなかったことのみを、今は無念に思っておられるので、一騎駆けで渡海になられるため、(伏見から)名護屋までの間の中継地に、早船や乗馬などが配置されています。
一
貴方のこちら(伏見)の屋敷は大方完成しましたので、先日絵図を作成しました。なお詳しくは藤堂太郎左衛門に言い聞かせています。
(慶長2年)8月21日
増田長盛
藤堂高虎殿
御返報
- 全羅道進攻任務が完了した後に、諸将が在番する城の築城予定地と、統治体制ついて、書状の中に記された通りに披露された。
- 築城予定地が書状の中に記載されていない所であっても築城してもよい。
- 最初に決められた所よりも張り出した地に築城してもよい。
- 諸将の居城とする場所は、早めに絵図に書いて提出すること。
- 晋州辺り(泗川)には小西行長を配置し、その他はくじ引きで決めてもよい。
このように、全羅道進攻任務完了後に慶尚道に戻って築城することは最初から決まっていたことであり、慶長の役に於いてこの通りに日本軍は行動した。
この築城予定地に関する内容は、日本軍が忠清道進攻を完了し、全羅道進攻任務が最終段階に達した9月16日に開催された井邑軍議で最終決定することになる。
井邑軍議の報告書として提出された『九月十六日付注進状』には
御仕置城々、各致惣談、相定申候、就は小西摂津守城之儀、宛前(最前)は、しろ国(慶尚道)之内と、被成御諚候へ共、赤国(全羅道)順天郡内、所柄見合候得而、取出可申候事、
と、小西行長が在番する城が最初は慶尚道内であったが、最初に決められた所よりも張り出して全羅道の順天に築かれることが決定し、他に立花宗茂の居城が固城に築かれることも決定している(『九月十六日付注進状』についての詳細は前回の投稿を参照のこと)。これは即ち『八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』に「最初に決められた所よりも張り出した地に築城してもよい。」と言及されていたことに対応する事柄である
ここで朝鮮側の記録である『宣祖実録六月十四日条』を見てみると
ここで朝鮮側の記録である『宣祖実録六月十四日条』を見てみると
•豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先擊慶尙、全羅等道後, 還駐沿海, 欲奪濟州。」
•豊臣秀吉の諸将への命令「汝等爲先鋒, 躪踏慶尙、全羅、濟州等地後, 退兵宜寧、慶州等處屯據, 召募朝鮮散卒遺民, 合我軍, 大作農事, 積峙兵糧, 明年又明年, 漸次奪據, 則朝鮮地方將爲日本之地。」
と沿海の地に戻って駐屯することが既に記されている。これも日本軍が全羅道・忠清道へ進発する前である6月14日の記録なのだ。
現在の韓国において「稷山の戦い(9月7日)や鳴梁海戦(9月16日)で日本軍が敗れて退却し、倭城を築いて守勢に回った」という類の主張が一般化しており、日本に於いてもこれに迎合的姿勢を示し、無批判に受け入れるような主張が見られるが、これは完全な過ちである。
既にホームページや当ブログで説明してきたように、稷山の戦いで退いたのは明軍であり、鳴梁海戦で退いたのは朝鮮水軍で、両戦闘後も日本軍の進撃が継続されたことは、日本側と朝鮮側双方の史料に記録されており疑いようがない。その後10月前半までに日本軍は忠清道と全羅道の掃討作戦を成し遂げて、最初からの予定どおり沿岸部に移動して築城した。これが慶長の役の真実である。